「この国」と「わが国」

平成22年10月13日付

【from Editor】「この国」と「わが国」

前々からとても気になっている言葉がある。メディアで頻繁に使われる「この国」という言葉だ。

「この国は一体どうなっているのか」「この国を考える」「この国を守る」「この国を変える」…。使われる場面はさまざまだが、ほとんどが世を憂いて嘆き、警鐘を鳴らす場面だ。

「この国」という言葉が急速に広まったきっかけは歴史小説で国民的な人気作家、故司馬遼太郎氏のエッセー「この国のかたち」だろう。以来、TVキャスターはじめ猫も杓子(しゃくし)も「この国」と使う。

ただ昨今の「この国」という言葉遣いを見ていると、なぜ「わが国」という言葉を使わずにあえて「この国」というのだろう、と感じることがしばしばある。はじめから私は国が嫌いだ、国家は打倒対象だ、という立場の人々なら、まだ理解はできる。そうではないはずの、国家のありようを論じる政治家や学者の口から「この国」などと耳にするとそれだけで興ざめしてしまうのだ。本当にこの人は国を憂えているのだろうか、と根本的な懐疑を抱いてしまう。

考えてほしい、「わが国」と「この国」の違いを。「この国を憂う」と「わが国を憂う」。自分の立ち位置はどこかという点で、この両者は全く異なっている。

「この国」というのは、国や国家の外に自分の身を置いた言葉だ。自分と、国や国家とは分断された関係で、人ごとのごとく外野から指さすかのような物言いだ。「三人称」で国を見ていると自ら認めているような言葉遣いなのである。

一方、「わが国」という言葉の場合、自分は国の中にある。国と自分は同じ側にあり、つながっているという認識が前提になった言葉遣いだ。「一人称」で国を見ているといっていい。

「参画型民主主義」への改革を唱える政治家も多い。尖閣の事件を機に主権や国益、国家観や国家戦略、国力増強といった言葉を頻繁に耳にするようにもなった。ところが、どんなに熱く語っても「この国」呼ばわりでは底が割れてしまっているのではないか。

「政治家の言葉が軽くなった」という嘆きもうなずける話だ。そのうち「尖閣諸島は『この国』固有の領土」などと言い出すかもしれない。

「この国」か「わが国」か。これは発言者の国や国家に対する根本的な態度や姿勢を見極めるひとつの指標になり得る。言葉が思考を規定するからである。(社会部編集委員 安藤慶太