総理は靖国神社を参拝すべき

総理はなぜ靖国神社を参拝すべきか

           古森 義久

 8月15日は日本の敗戦の日です。あの戦争に自国を守るために戦った日本人の霊を祭った靖国神社にはいまの民主党政権の菅内閣からはだれも参拝はしないそうです。菅直人首相ももちろん参拝しません。

 しかし一国の政府の代表が自国の戦争が終わった記念日に戦死者の霊に弔意を表さないことがいかに不自然であるか。外国にも日本の総理は靖国に参拝すべきだという意見があることを強調したいと思います。

 その代表的な意見を紹介します。いまから4年ほど前、小泉政権当時に総理の靖国参拝が論議を招いた時期の論評ですが、その今日性は変わっていません。

■毎月訪れて、敬虔さ示せ

 中国政府などが非難する小泉純一郎首相の靖国神社参拝への国際的考察として、日本の近代史を専門に研究する米国ジョージタウン大学東アジア言語文化学部長のケビン・ドーク教授は、首相の参拝は政治ではなく精神や心情に基づく戦没者への弔意の表明として奨励されるべきだとする詳細な見解を産経新聞に寄稿した。同教授は靖国参拝に対し中国や米国が干渉することは不適切だとも論じた。

 私は日本の近代史、とくにナショナリズム、民主主義、文化などを専門に研究する米国人学者として、靖国神社をめぐる論議には長年、真剣な関心を向けてきたが、自分の意見を対外的に表明することは控えてきた。

 靖国問題というのは日本国民にとって祖国への誇りや祖国を守るために戦没した先人への心情にかかわる微妙な課題であり、あくまで日本国民自身が決めるべき内面的な案件だと考えてきたからだ。

 ところが最近、中国だけでなく米国の論者たちが外部から不適切な断定を下すようになった。だから私も日本の自主性への敬意を保ちつつ、遠慮しながらも意見を述べたいと考えるようになった。

 私の意見は日本の国民や指導者が自らの判断で決めたことであれば、靖国参拝をむしろ奨励したいという趣旨である。その理由を、これまでの論議でほとんど語られていない観点からの考察も含めて説明したい。

 民主主義社会の基礎となる個人の権利や市民の自由は他者の尊厳への精神的な敬意が前提となる。とくに敬意を表明する相手の他者が死者となると、それを表明する側は目前の自分の生命や現世を超えた精神的、精霊的な意味合いをもこめることとなる。

 死者に対しては謙虚に、その生前の行動への主観的な即断は控えめにということが米国でも日本でも良識とされてきた。死者を非難しても意
味がないということだ。

 ましてその死者が祖国のための戦争で死んだ先人となると、弔意には死の苦痛を認知できる人間の心がさらに強い基盤となる。その心の入れ方には宗派にとらわれない信仰という要素も入ってくる。

 以上が現在の米国でも日本でも戦没者を悼むという行為の実情だろう。
 小泉純一郎首相の靖国参拝もこの範疇(はんちゅう)であろう。

 首相自身、自分の心情を強調し、政治的、外交的な意味を否定しているからだ。それに対し外部から無理やりに政治や外交の意味を押しつけ、参拝の中止を要求することは人間の心を排除し、民主主義の基本を脅かすことになりかねない。個人の精神の保ち方や信仰のあり方が脅かされるからだ。

 だから私は挑発的と思われるかもしれないが、小泉首相に年に一度よりも頻繁に、たとえば毎月でも靖国を参拝することをまじめに提案したい。
 そうすれば首相は反対者の多くが主張するように戦争や軍国主義を礼賛するために参拝するのではなく、生や死に対する精神、信仰の適切な応じ方を真に敬虔(けいけん)に模索するために参拝していることを明示できる。

 その明示の最善の方法は信仰にもっと積極的になることであり、そのために儀式上どのような祈念の形態をとるかは首相自身の権利として選べばよい。

 首相は戦没者の慰霊には靖国ではなく千鳥ケ淵の無名戦士の墓のような所に参ればよいという意見もある。しかし普通、生きている人間が死者に弔意を表することには現世を超越した祈りがこめられる。

 信仰とはまったく無縁の世俗的な場での戦没者への追悼では遺族にとっても重要な要素が欠けてしまう。国家としての追悼として不十分となる。

 米国でもアーリントン墓地での葬儀や追悼にはなんらかの信仰を表す要素がともなうことが多い。往々にしてキリスト教の牧師らが祈りの儀式を催す。葬儀が教会で行われるのも同様だ。

 日本でも葬儀が寺や神社で催されるのは、別に参加者が一定の宗派の信者でなくても、死者に対し精神あるいは心情からのなにかをささげるからだろう。

 靖国参拝も現世を超えるそうしたなにかをともなう慣行だといえる。靖国に参拝するためには神道の主義者でも信者でもある必要はないのだ。
 この事実は靖国参拝が特定の宗教への関与ではないことを裏づけている。
 宗派を超えた深遠な弔意表明とでもいえようか。