天皇の国事行為

天皇の国事行為(1)  投稿者:解法者  投稿日:2009年12月17日(木)20時42分42秒
 憲法第7条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う」と定める。ここで「国民のために」という文言について解説したものはない。それは「国民主権」だから、当たり前だという考えに基づくものであろう。これは大きな間違いである。ならば、わざわざ「国民のために」という文言を入れる必要はない。入れなくとも意味は通じる。これがわざわざ挿入されているのは、<天皇の行為は「国民の利益」のためになされなければならない>という重要な意味を持つ。本条に列挙する国事行為を見てみると、
すべてが「国民の利益」に結びつくものであることが一目瞭然である。
 それでは、天皇はこれ以外に何らかの「国民の利益」のためにしなければならない行為はあるのだろうか。これに関しては、憲法第6条に、「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」(1項)、「天皇は、内閣の指名に基づいて最高裁判所の長たる裁判官を任命する」(2項)、という規定がある。これも
「国事行為」の一種である。
 これらの天皇の国事行為は重要で、もし、それがなされなかった場合には、効果が生じない。内閣総理大臣も任命されず、その職に就くこともできないし、法律も公布されず、その執行はできない。
その意味では、単なる形式的・儀礼的なものではない。
 ここにいう「内閣の助言と承認」とは、助言(事前のもの)と承認(事後のもの)で一方が必要というものではなく、両方が必要とされている。「内閣」とは「総理大臣」ではなく、あくまで政府の中枢にある「内閣」で閣僚の同意(全員一致)が必要である。
 なお、天皇はこうした行為には拒否権はないとされている。しかし、このような行為を単なる形式的・儀礼的なものすれば、そのような結論を導くことができるか疑問である。なぜなら、国政に関与するという実質的行為であるからこそ、拒否権を与えると国政の重要な部分に支障をきたすからであると考えなければならないからである。  

天皇の国事行為(2)  投稿者:解法者  投稿日:2009年12月17日(木)20時40分12秒
 今回の外国要人との会見(「接受」が正しい用語)などの行為は、憲法第7条10号の「儀式」に含まれるという見解もあるが、「儀式」とは天皇が主催する国の公式な儀式をいい、即位式(「即位の礼」)、葬儀(「大喪の礼」、結婚式(「婚姻の儀」)〔こうした用語はしっかりと覚えていただきたい〕などをいう。国会での「お言葉」、「行幸」などは該当しない。もちろん、「接受」も同じである。
 こうした行為を「公的行為」と呼んでいるが、これを許すべきでないというのが憲法学者の一般的な考えである(『憲法(第2版)』辻村みよ子 日本評論社 2004年3月1日 94頁、『憲法(第2版)』有斐閣 2002年7月30日 268頁)。この考えの根底には天皇に権威を認めてはならないというものがある。
 こうした考えに基づけば、先の行為は「私的行為」となる。先の中国の副主席との「接受」も「私的行為」となる。そうであるならば、天皇に<拒否権>がある。どうして憲法学者およびマスコミが声を大にして中国の副主席との「接受」を<憲法違反>と叫ばないか、疑問がある。
 これを「私的行為」とするのは間違いである。天皇は「象徴」とされ、実質は「元首」としての地位に立つ。ならば、これを具現する行為もあり得るし、認めなければならないのであって、それが「公的行為」と呼ばれるものである。これは「儀礼的行為」である。
しかし、形式的行為ではなく、その影響力は大きい。
 したがって、これにも「内閣の助言と承認」が必要である。ここには天皇を政治的に利用してはならないという規制は当然に働く。特に「接受」は政治的色彩が強いものであるから、細心の注意が必要であることはいうまでもない。  

天皇の国事行為(3)  投稿者:解法者  投稿日:2009年12月17日(木)20時37分52秒
 それでは「国事行為」と「公的行為」との差は何であろうか。これも今回の「接受」では全く論じられてこなかった。その差は<強制力>にある。前者には「内閣」の強制が可能であるが、後者にはない。天皇陛下が嫌だと言えば強制はできない。ここがポイントである。直接にお伺いできないだろうから、「宮内庁」を通じて<お願い>することになろうが、その限度に止まる。付け加えれば、天皇陛下は日本で一番多忙なお方であろうし、その職責は国家そのものである。ご健康に留意されて、「宮内庁」が1ヶ月前に要請をしていただきたいという
内規を設けることに何ら問題があるとは思えない。天皇陛下は内閣の僕ではないのである。
 そして、天皇陛下がご自身の意見を述べることはないだろうから、側近である「宮内庁長官」が意見を述べることは自由であり、そもそも強制力は働かないから、「宮内庁長官」の処分などあり得ない。「内閣」ですら<辞任の要求>はできないから、一政党の幹事長ができるはずもない。だから、小澤幹事長を「皇帝」と揶揄したのである。辞任の要求ができるのは、「宮内庁長官」が天皇陛下の御意思に反してなされた場合に限られる。
 マスコミはここで述べたことを何で言わないのか理解できない。日ごろから「憲法」などを見て、勉強することもないだろうが、専門家にどうして意見を求めないのか不思議である。憲法学者も「天皇」の項など勉強してないから、わからないかもしれないが・・・
 小澤、何度受けても「司法試験」に合格せず、断念して政治家になった男。別に「司法試験」に合格しなくもいいが、記者に向って『憲法を読んだことはあるのか!』はないだろう。以上、小澤の「接受」を<国事行為>と言ったり、「内閣」の強制力が働くと言ったり、その「憲法解釈」は全くのデタラメである。小澤の憲法の理解はこの程度であることを図らずして露呈したもとして興味深い。

天皇の国事行為(4)  投稿者:解法者  投稿日:2009年12月17日(木)21時18分6秒
 天皇は前述のとおり日本最大の権威であるから、絶大な影響力を有する。権力を有すると言っても過言ではない。したがって、その「お言葉」は極めて大きく、陛下が「お言葉」を発せられるときに慎重になられることは日本大帝國憲法下でも現行憲法下でも変わらない。したがって、政府であれ国民であれ、陛下の御意思を<忖度>することは、陛下を利用することになり、厳しく制限される。戦前であれば当然に「不敬罪」(刑法第76条)の対象となり、2月以上4年以下の懲役に処せられた。このことは政治家にとっては極めて厳しい制約となる。なぜなら、天皇を政治的に利用することになるからである。
 「小澤一郎」民主党幹事長が「天皇陛下ご自身に聞いてみたら『会いましょう』と必ずおっしゃると思う」と発言したが、天皇陛下が自ら御発言をなさらないのを見越してのもので、不見識を超えて「不敬」となる。
 加えて、鳩山首相が中国国家副主席との接受を指示したのも前述のとおり<強制>を伴うので憲法に違反する。間違ってもらいたくないが、首相が「国民主権の原理」から国民より選ばれたからといって、天皇の上に立つのではない。天皇は「元首」として、そうでなく「象徴」のみの地位にあるとしても、同等である。命令権を
有するのは先の「国事行為」およびそれに準じる行為(憲法第6条)に限られ、それも命令権は「内閣」にあって、総理大臣たる「首相」にはない。



引用元:《日本の伝統文化を大切にしよう》
http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs