戦時国際法と戦争犯罪:加瀬 英明
この写真は、日本国にとって屈辱の日である昭和20(1945)年9月2日に、東京湾に浮かんだ敵艦ミズーリ(Missouri)号の艦上で、我が家族にとってこれほどの屈辱の日はありませんが、日本が降伏文書に調印したときのものです。前列にいるのが、日本政府の全権の重光葵(しげみつまもる)外相と、大本営代表の梅津美治郎(うめづよしじろう)陸軍大将の2人です。正面には、敵将マッカーサーが立っています。この写真の2列目の右から2番目に立っているのが、私の父親です。当時42歳でした。
米国によって戦争を強いられて、日本が追いつめられて存亡を賭けて、やむなく立ち上がったのは、みなさんもご承知の通り、昭和16(1941)年12月8日のことでした。私はこの日が我が民族の誇るべき日であると、確信しています。
開戦時、私の父は、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣の秘書官、および日米交渉を主管して交渉の指揮をとった北米課長と、イギリス帝国課長を兼任していました。
ミズーリ艦上の降伏調印式のときも重光全権の随行員としてお供をしました。重光外相がマッカーサーの前に進み出て、降伏文書に万涙をのんで署名したとき、わきに立っていたのが私の父です。
この日の午前4時半、降伏文書に調印するために随員を含めて外務省、陸海軍の11名が、暗いなかを首相官邸に集まりました。そのときの首相が東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)です。東久邇宮首相の短い挨拶があり、全員で水盃で乾杯をしたうえで、5時半に乗用車に分乗し、一面焼け野原だった東京を抜け、同じく見渡すかぎり焼け野原となっていた横浜にはいり、焼け野原の中にポツンと残っていた横浜県庁の応接室で、しばし休憩をとりました。
そして、横浜の埠頭まで移動して、そこで待機していた米軍の駆逐艦に移乗してミズーリの舷側まで行き、ミズーリのタラップをあがって、式場に着いています。
みなさんもミズーリ艦上の、あの今見ても屈辱的な降伏調印式の写真や映像を御覧になった方が多いだろうと思います。重光全権、それから私の父と2人の外務省の随員がいます。外務省員は、モーニングにシルクハットをかぶっています。最高の礼装です。
ただ、たったひとり、大田三郎という随員が、戦災ですべてを焼け出されてしまったもので、モーニングが間に合わずに、仕方なく真っ白な背広の上下を着ています。
私の父も戦災で家を焼かれていたのですが、モーニングは残りましたものの、シルクハットを焼かれてしまったので、人から借りたのですが、ブカブカで、艦上で風が強く飛びそうになって、しばしば片手で押さえています。
一方、わが国の陸海軍軍人は、略装の軍服です。軍人が正式の服装をするときには、いまの警察官のような、固いツバがついた帽子をかぶります。ところが当日の軍人たちは、戦闘帽です。海軍にいたっては、カーキ色の戦闘服です。
どうして外務省の一行が正装のモーニングを着ているのに、軍人は略装だったのでしょうか。みなさんの中で答えられる方はおいででしようか。いままでこの写真や映像を見て、不思議に思われた方は、おいででしようか。おいでにならないのかもしれません。
どうしてかというと、重光全権ら外務省の一行は、畏れ多いことですが、天皇陛下を代表する立場でした。外務省の一行は敵に対してではなく、陛下に対して敬意を表して礼服を着たのでした。けれど軍人は、軍を代表していました。仇敵に敬意を払いたくなかったので、略服を着ていたわけです。
ミズーリ艦上に立った重光外相は、この13年前に中国公使として、上海に赴任していました。当時の日本は中国に「大使」は送っていません。世界の主要国から日本には大使が派遣されてきていましたが、日本から「大使」を送っていたのは、英国、ドイツ、イタリア、米国、ソ連などの大国に対してだけでした。二流国だった中国には「公使」です。
その上海の日に、野外で天皇誕生日の祝賀式典がありました。天皇誕生日は、昭和時代ですから5月です。この式典会場で、国歌君が代が吹奏されたので、重光公使らが壇上で立っていたところ、不逞朝鮮人が爆弾を投げました。
壇上にいた陸海軍司令官と、重光公使全員が、爆弾が足下に転がってきたのがわかりました。けれど当時の日本人ですから、国歌の吹奏中に、まさかうろたえてこれを避けるわけにいきません。直立不動の姿勢のままでいました。
爆弾が爆発をして、重光公使は片足を失いました。ミズーリ艦上に立ったときの重光全権は、片足が義足です。
私は重光さんに晩年まで可愛がられました。よく存じ上げて、いろいろ話を伺う機会がありました。重光さんは私の父とミズーリの艦上に立ったときのことを、次のように述懐されました。
「あの日、敗れたという屈辱感よりも、日本が今度の戦争で多くの犠牲を払ってアジアを数世紀にわたった白人・西洋の植民地から解放したという高い誇りを胸に抱きながら、ミズーリ号の甲板を踏んだ。」
引用元: chomon-ryojiroさんの「頂門の一針」:イザ!,
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