卒業証書の文言を

 卒業証書の文言が正しくないということは、このブログでもこれまで書いてきました。しかし、一向に変えたという話を聞きません。

 広島県の公立高校の卒業証書の文言です。

 「右の者は本校において頭書の課程を修了したことを証する」

 変でしょう。「右の者は」の「は」は「修了した」に係っていかないで、「証する」に係るのです。だから、「右の者は→証する」という訳のわからない証書になっているのです。

 私ごときが何を言っても通用しないということで、昨日、「セサミンの広告文」の誤り指摘に、井上ひさしさんの文章を援用しました。

 今日も、井上ひさしさんの文章を使わせてもらいます。

 直接、この卒業証書の文言について触れたものではありませんが、「は」のはたらきについて、興味あるエピソードの紹介です。

 「戸板康二に『ちょっといい話』(文藝春秋。1978年)という、たいへんに元手と時間のかかった書物があるが、このなかに『が』の息が短いことを示す『ちょっといい』お手本があったので引用させていただく。

 北原武夫さんが、『新劇』という雑誌で、毎年演技賞を若い俳優に贈っていたころ、アンケートの葉書に毎年毎年、同じ名前を書いて、送って来た。
 公卿敬子(同人会)
 というのである。
 その後、気がつくと、北原夫人になっていた。」

 筆者(井上)は冒頭の部分をつい〔北原武夫さんが演技賞のスポンサーである〕と誤読してしまったが(むろん、句点まで読んで自分の間違いに気づいた)、これは『が』に、遠くへ係る力が弱いせいだろう。「北原さんは……」とすれば、筆者の如く誤読するものはすくなくなるはずである。(『私家版 日本語文法』31頁 井上ひさし

 これは、助詞『は』が文末に係ってゆくということを間接的に説明した文章です。

 もっと、直接的な例でないと納得しないという向きもあるので、新進気鋭の言語学者、町田健さんの文章を紹介します。

 「『ハ』のところで切れる」とか「『ハ』は文末と結ぶ」なんて言われてもなんとなくピンとは来ないのが普通だと思います。たとえば「花子は愚痴を言うと怒る」という文では、「花子」は「怒る」の主語で、「愚痴を言う」の主語ではない、という意味にとるのが普通ですよね。つまり、誰かが愚痴をいうと、花子は怒るんだ、という事柄をこの文は表しているわけです。ということは、「花子は」は文の最後にある「怒る」とつながっているんだ、ということになります。これが「文末と結ぶ」という言い方が表していることです。(中略)
 ここでは『ハ』が主題を表す場合を考えてみましょう。それで、『太郎は賢い』という事柄を、誰かが『知った』という内容を表そうとすると、『太郎が賢いことを知った』みたいに、『ハ』ではなくて『ガ』を使わなければならなくなる、つまり、従属節の中だと、主題を表す『ハ』が使えなくなってしまう、ということです。」(『日本語のしくみがわかる本』101頁)

 「従属節の中だと、主題を表す『ハ』が使えなくなってしまう」。

 これが町田健さんの断定です。

 「右の者は本校において頭書の課程を修了したことを証する」という文言で、「本校において頭書の課程を修了した」という従属節の中では「は」は使えず、「右の者は」は「証する」に係ってゆくしかないと考えるということです。そして、「右の者」が「証する」はずはありません。「証する」のは末尾に出てくる校長です。

 訂正の仕方はいくつかあるでしょう。二文にして、「右の者は本校において頭書の課程を修了した よってここにそれを証する」としてもいいし、「右の者は」を省略して、「本校において頭書の課程を修了したことを証する」だけでもいい、とにかくひどい誤った文言の書いてある証書を一生大切にしなければならないということだけは止めなければならないと私は考えます。

 私はすでに文科省や県に申し出ました。しかし、まったく相手に響きませんでした。他の「無理題」の指摘と同じように。



引用元:卒業証書の文言を正せ|「無理題」に遊ぶ