寛仁親王殿下

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私だけが知っている寛仁親王殿下
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         加瀬 英明

寛仁親王殿下が、薨去された。日本は掛替えのない方を、失った。

寛仁親王に昭和50(1975)年に、はじめてお目にかかった。高松宮宣仁親王殿下にお願いしたいことがあって、芝高輪の高松宮御殿に伺ったときだった。

私は高松宮殿下に敗戦後、皇室のありかたがどのように変わったのか、高松宮、喜久子妃殿下、秩父宮勢津子妃殿下、三笠宮崇仁殿下にお集まり頂いて、お話を伺いたいとお願いしていた。殿下は快く引き受けて下さった。

その日は、殿下から宮様がたのお集まりについてお話があると思って、参上した。

すると、寛仁親王がおいでになった。高松宮殿下が「君に頼まれた資料座談会というのかな、三笠宮家はこの人にしたよ」と、さらっと仰言った。

私はとっさに戦後世代の皇族がお入り下さったほうがよいと思って、わが意を得た。「それに、寛ちゃんはやんちゃだから、君に後見役を頼もうと思ってね」と、つけ加えられた。

私は月刊『文藝春秋』の田中健五編集長から、皇室が戦争をはさんでどう変化したか、寄稿するように頼まれていた。

私は昭和天皇を中心にして昭和20年元日から、マッカーサー解任までノンフィクションを、前年5月から50回『週刊新潮』に連載したが、高松宮殿下のもとに通ってお話を伺っていた。

年末に、高松宮殿下、同妃殿下、秩父宮妃、寛仁親王が、高松宮邸にお集り下さった。私は田中編集長、速記者、カメラマンとともに参上した。

文藝春秋』昭和51年2月号に「新春座談会 皇族団欒」と題して、17ページにわたって掲載された。前代未聞の座談会だった。

テープを起してから、内容があまりにも素晴しかったので、高松宮殿下にそのまま誌上に掲載したいとお願いしたが、「君の色目鏡を通して、書いたほうがいいな」といわれて、お許しが出なかった。

すると、寛仁親王が「伯父様」を口説き落として下さった。高松宮殿下はゲラに赤を1つも入れずに、戻して下さった。

この座談会はいま読んでも、読み応えがある。後日談だが、昭和天皇がこの座談会を不快に思われ、寛仁親王をお召しになって、叱責された。
入江相政侍従長の死後刊行された『入江侍従長日記』が、言及している。

 「タバコを喫って下さい」
天皇は寛仁親王に、皇族が大衆雑誌に軽々しく出て、放談することが好ましくないと、たしなめられた。寛仁親王は皇室を国民に知ってもらうのに、役立ったと思いますと申し上げたと、打ち明けて下さった。

寛仁親王は父宮よりも、「伯父様」を手本とされていた。この座談会で「感化を受けたのは誰かと聞かれたら、僕は皇族では伯父様の名をあげるわけです。結局、『皇族というのは、どうあったんですか』とか、『今後どうしたらいいですか』ということは、三笠宮家の子供たちは、伯父様に伺うしか方法がなくなっちゃう」と、発言されている。

高松宮両殿下にお子様がおいでにならなかったので、お2人は寛仁親王を可愛がられていた。

寛仁親王高松宮の御薫陶を、生涯を通じて、もっとも強く受けられていた。

私は高松宮殿下が名誉会員をつとめられていた、盲人福祉団体の理事を仰せつかっていた。「皇族団欒」が掲載された翌年、「君も40歳になったから、少しは世の役に立つことをしなさい」といわれて、会長を引き受けさせられた。

盲導犬の寄贈、角膜の死後贈与登録運動を行っていたが、札幌の全盲の青年からミノルタが「地アゲ屋」のために開発した、濃淡が凸凹に転換される写真コピーが、盲人が触れる写真として使えるという、提案があった。

全国に呼びかけて、昭和60年から毎年『全国盲人写真展』を開催するようになった。

寛仁親王に名誉審査委員長に、ご就任頂いた。盲人が、細江英公、児島昭雄諸先生など写真界の大御所の審査委員が、舌を巻くような、優れた写真を撮る。

身障者福祉については、殿下が私の師だった。殿下は「人は加瀬さんもぼくも、誰でも不得手なことや、障害がかならずある。人生は、誰にとっても障害と戦って、乗り越えることだ」と、いわれた。

殿下は最優秀作品賞として、自分でデザインされた寛仁親王牌を御下賜になり、毎年、応募作品の最終審査に当られ、『全国盲人写真展』開会式に御臨席下さった。

いつも作品の前に立つ入賞者に言葉をかけられたが、時間的に1人1人平等に話される。さすがに皇族だと思って、感心した。

殿下は限りなく優しかった。盲人写真の地方巡回展にしばしば御一緒したが、殿下が最初の喉頭癌手術から回復された直後に、福岡市までお出掛け下さった。地元の有力者が料亭に集まって、歓迎晩餐会を催した。

殿下が隣の私に、突然そっと小声で、「タバコを喫って下さい」といわれた。

私がタバコに火をつけると、そこかしこでタバコを取りだした。殿下が手術をされたのを知って、遠慮していたのだった。あとにも先にも、人から命じられてタバコを喫ったのは、この時だけだった。

 皇室は日本人の魂

殿下は厳しい方だった。じつに細かいところまで、気を配られた。写真展開会式に各国の大使が来たが、ボランティアのスタッフの応接に遺漏があったり、印刷物に誤りがあると、私には遠慮されていたのか、やはりボランティアの理事長に小言を提された。

今年5月の全国盲人写真展開会式にも、臨席下さることになっていたが、御入院のためにかなわなかった。

それでも、選考上位の写真を十数枚お届けして、病床で親王牌と次席の作品を選んで下さった。72歳の奈良県の女性と、札幌の9歳の盲学校生徒だった。

皇太子殿下がまだ独身でいらした時に、『文藝春秋』にどのようなお妃を迎えられるべきか、10人ほどが寄稿した。私はこう述べた。

「皇室のもっとも重要な役目は、日本の文化の形を守り、伝えることにあります。皇太子妃は将来『国母』となられる方ですから、日本女性らしいことが何よりも大切です。皇太后陛下のように『日本の母』を感じさせる方が望ましいと思います。天皇皇后は日本の男女の理想像であるべきです。

皇室は細く長く続けばよいもので、人気を追及してはなりません。人気は必ず褪(あ)せるものです。お妃にはできるだけ地味な方が望まれます。

洋装よりも和装が似合う方、西洋文学よりも国文学に親しまれている方が望ましいと思います。(略)マスコミによって知るかぎりでは、高学歴や、国際性を重視しているようです。今日の日本には、学歴が高くても教養がない女性が多すぎます。高卒、短大卒でも、教養があふれた女性がいます。

英語ができることを条件とするべきではありません。ミス・ワールドを選ぶわけではありません。皇太子妃はいくらでも通訳を使うことができるはずです。

これまでマスコミに登場したお妃の有力候補は高学歴、英語が練達で、男勝りのキャリア・ウーマン型でした。このようなタイプの女性が日本を豊かにするとは思えません。(略)

お妃候補の対象を地方へ拡げたらどうでしようか。由緒ある旅館の娘さんや、堅実な農家の娘さんのなかに素晴らしい未来の皇后がいるのではないか。

皇室は日本人の魂――現代的にいえば無意識の要です。(略)」

寛仁親王にお目にかかった時に、拙文を読んでおられ、「ぼくもその通りだと思う。加瀬さんがいつか、教育と教養は違うものだといったけれど、女についてとくにそうだね」と、褒めて下さった。

 自分が何者かわからない

殿下は鋭いユーモア感覚を、お持ちだった。殿下は重症身障者の会を主宰されていたが、私は会報に寄稿したり、講演することを頼まれた。

会報の誌名が『ざ・とど』だった。重症身障者の会員が、殿下がアシカ科のトドに似ているといったことから、殿下が命名されたのだった。

私は殿下と酒をのんだことは、あまりなかった。

たまに宮邸でウイスキーを御馳走になった時は、「シーバス・リーガル」だった。

「これがお好きですか?」とたずねると、ラベルを指された。「プリンスス・ウイスキー」(殿下のウイスキー)と、英文で印刷されていた。

私の前では、気をお許しにならなかったのか、深酒をなさらなかった。

川島織物という、京都の老舗がある。明治宮殿、新宮殿の内装を受け持った。平成元年秋に、寛仁親王を創業100周年の式典にお招きした。

殿下がどこかで私が社長と親しいことを耳にされて、「外交が専門だし、東蝦夷(あずまえびす)だから、京都の遊びには疎いでしよう」といわれて、お誘い下さった。

祇園の座敷で、会社主催の宴があった。私は殿下が芸妓さんたちと昵懇(じっこん)なのに、驚いた。

宴会が終わると、お馴染みの芸妓の京都風の靴を脱いであがるスナックに、お連れ下さった。

真夜中過ぎに、ホテルにお供して戻った。寝ようとしていたところ、ドアがノックされ、お付きの事務官が「殿下がお呼びです」といった。

お部屋に伺候すると、殿下を囲んで姥桜(うばさくら)の芸妓ばかり3人いて、賑やかだった。

「よく綺麗所(きれいどころ)をご存知ですね」と申し上げると、「われわれは京都のファミリーだからね」と、真顔でお答えになった。

殿下は三笠宮家のお3人の兄弟のなかで、お生まれについて、もっとも悩まれたのではなかったか。

高松宮殿下が、「寛ちゃんは終戦後の混乱期の育ちだから、皇族と一般の国民の両棲類になって悩むことがあるけど、ヨッちゃん(桂(かつら)宮宜仁(よしひと)親王殿下、三笠宮の第2男子)は、安定期に入ってから育ったから、われわれの世代と変わらないな」と、仰言ったことがあった。

寛仁親王御自身、初等科(学習院小学部)から中学まで、「同級生や、上級生から『宮様』とか、『おい、三笠』とか、『お前』と呼ばれて、自分が何者かよく分からなかった」と、振り返られた。

高松宮喜久子妃殿下が、宮邸に伺った時に、「男子の皇族がたが軍服をお召しにならないのでは、この国も駄目ね」と、仰言った。戦前は、男子皇族は陸海どちらかの軍務につかれた。

ところが、戦後の皇族は御自分でどのような仕事を生き甲斐にされるか、お決めにならなければならない。

親王殿下の場合には、「福祉の現場監督」となることをお選びになったが、御心労だったと思う。

寛仁親王は皇族のなかでお1人だけ、率先して機会あるごとに、自衛隊をお励ましになった。

海上自衛隊練習艦隊が出航する前に、士官候補生をホテルに招いて、洋食のマナーを親授なされた。武道館で催される、自衛隊音楽祭にも御臨席になられた。

ある時、私に「何といっても、軍は国家の楯だからね」と、いわれた。
靖国神社の例大祭にも、御親拝を欠かされなかった。

親王殿下は皇族の皆様がそうだが、天皇家のお血筋のために、国民に片思いされていた。殿下は2千年の万世一系の御家系だから、私たちがせいぜい50年先ぐらいの将来についてしか考えないのに、数百年か、千年先の日本を思われた。

皇室の行方について、真剣に心を砕かれた。

小泉内閣のもとで有識者会議が、女系天皇を容認する答申を行った時に、「神武創業以来の日本のかたち」を壊してしまうといわれて、御自分が主宰される重症身体障害者の会の会報に、強く反対される意見を発表されて、国民に訴えられた。会報にさりげなく書かれたのは、政治にかかわらないように配慮されたのだった。

殿下は、私に「陛下が女系をお望みになるはずがない。どうしても、事態がせっぱつまったら、陛下に直訴します」と、仰言った。私はそのお言葉をきいて、お覚悟に心を打たれた。

殿下はいつも日本の外交や、政治について憂いていられた。中国について、よく御下問を受けた。そして、日台関係を国交がないものの、強化すべきであると、考えられていた。

 実現できなかった訪台

ある時、私に「ひとつ、あの手でゆこう」といわれた。
平成2年に韓国写真家協会から、盲人写真展をソウルで開催したいという要望があって、私は殿下に韓国にお越しにならないか、お誘いした。
殿下は「もちろん、妓生パーティつきだろうね」と笑われて、承諾された。

これが、戦後世代の皇族による、はじめての訪韓となった。

韓国は首相をはじめ朝野あげて、手厚く殿下を迎えた。殿下は韓国の要人に対して、わきから喝采したいほど、堂々と振る舞われた。やはり、お育ちだった。

台湾で盲人写真展を催せば、殿下が訪台されることが、できたかもしれなかった。皇族の海外訪問には閣議の了解が必要だが、文化的な催しだから、政界の志ある面々を口説けば、了解をえられると考えた。

私から在京の台湾代表に話したところ、喜ばれた。ところが、殿下の御体調のために、そのままになってしまった。

台湾人は、世界でもっとも親日的な人々だ。日本として台湾人の友情に、応えなければならない。殿下の御訪台が実現しなかったのは、残念なことだ。

寛仁親王の皇室観は、高松宮によって伝授されたものだった。

高松宮は先の「皇室団欒」のなかで、こう発言されている。

「国民のなかには、共産革命というものを最高の理想とする向きもあったし、民主社会的なものがいいという、考えの方もあったね。三笠さんなんか、民主社会主義をねらったんじゃないかね。

天皇制というものに対しちゃ、いろんな批判があるけど、私なんかいまの国体というものはやっぱりいいと思うのよ。

ずっと続いてきて、目に見えない1つのよりどころがあるということは、国にとっていいということと、終戦の時の陛下のご決断ということを考えてみても、何かがあった時に安定したものとして、国民が利用できるものとして、天皇制は意味があると思うね」

「三笠さん」は、寛仁親王の父宮のことだった。

 女性宮家創設にも反対

女性宮家の創立にも、反対されていられた。

これまで日本の歴史を通じて、女性皇族が結婚して、配偶者が皇族となったことは、一度もない。そのために、女帝であれ、女性皇族であれ、配偶者を呼ぶ言葉が、日本語に存在しない。そのこと1つとっても、日本になじまない。

私が殿下に、先の小泉政権の「有識者会議は『皇配殿下』という新語を造りましたが、動物の交配の『交配殿下』のようだ」と申し上げると、顔をほころばせて、笑われた。

私は親王殿下に「女系天皇は歌舞伎に女優を登場させるのと同じことで、そうなったら、歌舞伎ではなくなってしまいます。1つの文化の形をつくるのには、数百年か、1千年か、2千年の歳月がかかりますが、気紛れから、一瞬で破壊することができます。

天皇家のありかたを、われわれの世代の国会で決めるのは、思い上り以外の何ものでもありません」と、申し上げた。殿下が大きく、頷かれた。

私はアメリカ占領下で、日本を弱体化するために、11宮家の臣籍降下が強制されたが、皇統を護るために、旧皇族の血をひく適齢男子に皇籍にお入り戴くのが、最上策だと考えている。

いま、押しつけ憲法の改正を求める声が、日々たかまっているが、アメリカが皇族の臣籍降下を強要したのも、まったく同じことではなかったか。

殿下は女性宮家が設立されれば、女系天皇の道をひらくことになると考えられて、心配されていた。

それにしても、天皇家のありかたを決めるのに、天皇家に御相談しないで決めようとしているのは、国民として礼を失しているのではないだろうか。

私は殿下の御訃報に接して、一の谷に巣食う平家に対して、源氏の軍勢が鵯越(ひよどりご)えの前に、義経を失ったという思いがした。

高松宮喜久子妃殿下が天上で、「あら、いやだ! 寛ちゃん、なぜ、こんなに早く来たの?」と、仰言っていられるのではないだろうか。


引用元:
わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2665号