大日本帝国憲法第一条


■1.「しらす」と「うしはく」

 井上毅は、これから起草する憲法の根幹とすべき「民族精神・国民精神」を求めて、徹底的な国史古典研究を続けたが、その過程である重要な発見をした。

 それは古事記において、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が出雲の支配者である大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して、国譲りの交渉をする部分である。

大国主神が『うしはける』この地」は、「天照大御神の御子が本来ならば『しらす』国であるから、この国を譲るように」とある。
井上はこの「うしはく」と「しらす」がどういう違いを持っているのか、調べてみた。

 すると、天照大御神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」が使われ、大国主神や一般の豪族たちの場合は、「うしはく」が使われていて、厳密な区別がなされていることが分かった。


■2.「しらす」とは、国民の喜び悲しみを「知る」こと

 井上はここに日本国家の根本原理があると確信した。「しらす」とは「知る」を語源としており、民の心、その喜びや悲しみ、願いを知ることである。そして、それは民の安寧を祈る心につながる。

 たとえば、今回の大震災に関しても、天皇皇后両陛下は何度も被災地を訪れ、避難所で膝をつきあわせて、被災者たちの声を聞かれた。被災者たちは国家を象徴する天皇に自分たちの苦難を聞いてもらうことで、自分たちは孤立しているのではない、国家国民が心配してくれているのだ、と勇気づけられる。[a]

 またそこから明らかになった被災者たちの苦しみを少しでも軽減しようと、自衛隊や警察、ボランティアなどの人々が救援活動を展開する。これが「知らす」による国家統治の原風景であろう。

 歴代天皇は、天照大御神から授けられた三種の神器を受け継がれている。その中で最も大切な鏡は、曇りなき無私の心で民の心を映し出し、知ろしめすという姿勢の象徴である。

 これに対し、「うしは(領)く」とは、土地や人民を自分の財産として領有し、権力を振るうことだ。北朝鮮で数百万人の人民を餓死させながらも、金正日が贅沢の限りを尽くし、同時に核開発を進めて自らの権力を誇示していたのは、「領く」の一例である。[b]


■3.国家成立の原理

 井上は、こう説く。

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 支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪傑がおって、多くの土地を占領し、一つの政府を立てて支配し、その征服の結果をもって国家の釈義(意味)となすべきも、御国(日本国)の天日嗣(あまつひつぎ、天皇)の大御業(おおみわざ、なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より成り立ちたるものなり[1,p80]
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 かかれば御国(日本国)の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始めは君徳に基づくという一句は、日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ[1,p81]
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 たとえば英国では国王の横暴から臣民の権利を守るために不文憲法が発達したが、これなどは「君民の約束」の一例だろう。[c]

 これに対して、日本国は民の喜び悲しみを天皇が知り、その安寧を祈る、という「君徳」が、国家の成立原理になっていると、井上は確信したのである。


■4.大日本帝国憲法第一条

 この発見に基づいて、井上が大日本国憲法草案の第一条として、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇ノ治ラス所ナリ」とした。

 しかし、この近代憲法を世界に知らしめようとした伊藤博文から、「これでは法律用語としていかがなものか。外国からも誤解を招く」との異論が出て、最終的には、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之(こ)レヲ統治ス」と改められた。

 しかし、井上は伊藤博文の名で自ら執筆した憲法の解説書『憲法義解』の中で、この「統治ス」は「しらす」の意味であるとはっきり書いている。

 この第一条から、明治憲法は天皇が国家の主権を握った専制憲法である、というような解釈をする向きもあるが、それが誤解であることは、この点からも明らかである。

 逆に天皇が国民の思いを広く知るためには、むしろ専制主義であってはならない、というのが井上の考えでもあった。たとえば、憲法第5条の「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」は、言い換えれば、天皇が議会の協賛なしに勝手に法律を作ることを禁じている。

 この憲法が発表されると、欧米での識者からは高い評価が寄せられた。伊藤博文が師事したウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授は、「日本の憲法はヨーロッパの憲法と比べても大変出来がよい」と評価した。[d]


■5.信教の自由、思想の自由との両立

 前編で述べたように、大日本帝国憲法が発布された明治22(1889)年の翌年、急速な文明開化による教育の混迷に危機感を抱いた地方官会議(県知事会議)で「徳育涵養の義につき建議」がなされた。

 同じ危機感を抱かれていた明治天皇からも「徳育に関する箴言(しんげん)」を編纂して子供たちに学ばせよう、という提案があった。

 これを受け文部大臣芳川顕正(よしかわ・あきまさ)が、ベストセラー『西国立志編』を著した東大教授・中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をしたのだが、できあがったのはきわめてキリスト教色の強いものだった。「吾(わが)心ハ神ノ舎(やどり)スル所ニシテ」云々とまるで牧師が説教しているかのような文言もある。

 この案をチェックして断固拒絶したのが、当時、法制局長官をしていた井上毅だった。首相の山県有朋は「それならどういう案なら良いのか、示してくれ」と井上に、草案の起草を求めた。

 大任を引き受けた井上は、まず近代国家の枠組みの中で、このような文書が満たすべき条件を考えた。

 まず信教の自由を守るためにも、「天」とか「神」といった特定の宗教の用語を避けなければならない。キリスト教、仏教、儒教、神道、いずれを信奉する人々にも、等しく受け入れられるようなものではならない。

 同様に、国民の良心の自由、思想の自由を守るためにも、君主が国民の信ずべきことを権力をもって強いるようなことがあってはならない。そのためには法的文書ではなく、君主が自らの考えを明らかにした「著作」という形をとることが望ましい。

 さらに、天皇のお言葉として、論争を呼ぶような哲学的議論や、「政治上の臭み」、「あれをするな、これをしてはいけない」というようなせせこましい説教を避けねばならない、と考えた。


■6.「天皇のお言葉」を綴る無私の心

 この考えのもとで、井上は最初の文案をまとめた。苦心に苦心を重ねただけあって、すでに教育勅語の最終的な正文にかなり近い内容になっていた。

 井上はこの草案を、「明治天皇の師」元田永孚(もとだ・ながさね)に見せて、アドバイスを求めた。元田も、中村正直の案には大いに不満を抱いており、すでに自分なりの草稿を作成していたが、井上の案を見て、自らの草稿を引っ込めてしまった。

 井上の草案から出発した方が良いと考えたようだ。自らの名誉などはまったく頓着せず、ただ国家のためにベストの道を選ぶ、という無私の心が窺われる。

 ここから二人が協力して文案修正を始める。その過程では、元田が儒教的な表現を入れようと提案したが、井上がそれを断固拒否したこともあった。同郷の大先輩であり、当代一流の漢学者の提案であっても、万世に残る天皇のお言葉としてふさわしくないものは受け入れられない、との、これまた無私の心からであった。

 首相の山県からは、国家の独立のために軍備が必要であり、「一朝事あれば」というようなことを一言入れて貰えないか、という提案もなされたが、これも井上は「政治上の臭み」と考えたのか、拒絶している。

 最終段階では当然、明治天皇にも見ていただいた。元田が「国憲ヲ重ジ、国法ニ遵(したが)ヒ」の一節を、天皇の統治大権を制限するので好ましくないとしたが、天皇は「それは必要だから残すように」と言われた。近代立憲国家に必要な国民の心構えと考えられたのであろう。


■7.「私はあなた方国民とともに」

 このような過程を経て、ついに文案が完成し、明治23(1890)年10月30日、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)として発表された。

 国民への押しつけにならないよう「君主の著作」として、他の勅語とは異なり、明治天皇の署名のみで、国務大臣の副署はなされなかった。

 そして冒頭から「朕(ちん)思フニ(私が思うに)」と、法令ではなく、明治天皇ご自身の考えであることが明記されている。さらに最後は、次のようなご自身の切なる願いとして結ばれている。

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 朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ咸(みな)其(その)紱ヲ一ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ」
(私はあなた方国民とともに、この教えを常に心に抱き、皆でともにこの徳を抱いていくことを切に願う)
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 戦後、占領軍からの指示で、この教育勅語の「失効」を確認する国会決議がなされているが、もともと明治天皇の「個人的著作」として発表されたものであるから、当然、法的拘束力もなく、したがって国会で失効を決議すること自体が、意味のない所為であった。


■8.美しい国柄

 冒頭で、井上の「知らす」と「領(うしは)く」の違いに関する発見を述べたが、井上は教育勅語においても、歴代天皇の国民の苦しみ悲しみを「知らす」という徳が、我が国の道徳の源泉である、と冒頭から述べている。

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朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ 我カ臣民 克(よ)ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ 世々 厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ 此レ 我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源 亦 實ニ此ニ存ス

(私が思うには、皇室の祖先は宏遠な理想を抱いて国を始め、国民の幸せを願い祈られる徳を深く厚く立ててきました。それを受けて国民も国に真心を尽くし、先祖や親に孝心を抱いて、国民すべてが心を一つにして、代々美しい国柄を作り上げてきました。教育の源も実にここにあります。)
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 今回の大震災に例えて言えば、両陛下がひたすらに被災者を案ずる大御心が「徳」であり、その大御心を我が心として自衛隊員などが被災者を助け、また地域、家族で助けあう姿が「忠」や「孝」である。そしてこの美しい国柄が世界を感嘆させた。

 教育の「淵源」もこういう美風にある、というのが、教育勅語冒頭の主張であった。


■9.「偉大な勅語に雄弁に示された精神」

 明治38(1905)年の日露戦争の勝利は、アジアの一小国が白人の大国を近代戦争で打ち破った戦いとして、世界を驚嘆させた。

 英国は、日本の発展の原動力を、教育勅語をもとにした道徳教育の力と捉えて、講演者の派遣を日本に要請してきた。これに応じて、元東京帝国大学総長・菊池大麓(だいろく)が、教育勅語を英訳し、明治40(1907)年、英国各地を講演して回った。

 その結果、たとえば全英教員組合の機関紙は、「この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を続け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を積み重ねていくであろう」と絶賛した。[1,p153]

 大震災で被災者たちの助けあう姿が世界を感動させたように、人々が互いを思いやって、共同体のために尽くす姿は、洋の東西、時代の新旧を問わず、人の胸を打つ。人間が生まれながらに持つ公徳心、道徳心に響くものがあるからだろう。

「之ヲ古今(ここん)ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ」(これは昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理である)と勅語にある通りである。

 ただ、この道理が悠久の昔から建国の原理となっていたという史上稀に見る幸福に、我々日本国民は気づき、感謝しなければならない。

 井上は教育勅語煥発のわずか5年後の明治28(1895)年、文部大臣の任期半ばで亡くなった。まだ51歳だった。もともと体が弱かったのが、精魂を込めた仕事で心身を使い果たしたのだろう。

 死後、皮下注射をした医者は「よくも、衰弱したるかな。殆(ほとん)ど一滴の血すら残さず」と述べたという。[1,p164]

(文責:伊勢雅臣)


引用元: No.736 井上毅 〜 有徳国家をめざして(下) 国際派日本人養成講座/ウェブリブログ,