二・二八事件


私が体験した二・二八事件
周英明 (談)  2002年5月1日

この様な二・二八の会は、今までに何度もやっている訳でございますが、私、歳をとって来たせいか、此の間、つよく思いましたけれど、若しかすると私などの年代はですね、二・二八事件の歴史の生き証人になったのではないか?と云う気がフト致しました。当時二・二八の頃、私は十三歳でした。

私より、ずっと歳の若い方、多分小学校の低学年の方達は、覚えて無いでしょうし、又あの頃、非常に元気旺盛な時代に二・二八事件にぶつかった方々は、もう多くの方がお亡くなりになっていると云う事もありまして、しかも二・二八事件と云うのは、主に台湾の西側の縦貫鉄道に沿った都会で発生したと言うか、行われましたので、二・二八事件を直接体験した地方と云うのは、やはり台湾全体から見ると限られている訳です。

ですから、私もこの歳になりまして、いつ死ぬか分からないので、生きている内にこの私の貴重な体験として、二・二八事件を語り継いで置かなければ…と云う気持ちになりまして、それで今日、こう云う事をやりたいと私、自ら申し出た訳でございます。けれども、ただ私、今日は何もですね、二・二八事件の経過についてとか、或いはその意義について客観的に論評をするとか…そんな気持ちは無いのです。

そんな事は皆さんとっくにご存知ですから、そうではなくて、一人の中学校一年生、十三歳の少年の目に映った二・二八事件のそれを、あとから得られた知識は一切排除して、難しい事ですが私がその時、生のまま身を持って感じた感覚は、どんなものであったか…と、私はわざと、そういう風に語りたいと思いますので、その様な話になると思いますが、ただ、二・二八事件と云うのは、随分期間がありまして、その中で最初から最後まで私、かなりいろんな体験をしているものですから詳しくお話すると、とても時間がございませんので、多少端折らせて頂くと云う事になるかも知れませんが…。

ともかく二・二八事件が始った!…と、この経いき緯さつはさて置いて、先ほど宗像さんから紹介がありました様に、私はまるで日本から、わざわざ二・二八事件にぶつかる為に台湾へ帰った様な次第でして、いきなりドンパチ始まっちゃった訳です。

それで、その二・二八事件の二月二十八日が過ぎて、私はその頃、高雄中学の1年生でしたが、その時高雄はまだ何事もないのですよ。只、私は特殊な状況にありまして、親父が台湾鉄道に勤めて居りまして、私どもはその高雄駅の直ぐそばに在る鉄道官舎に住んで居ました。その官舎にはいろいろと運転士も居れば車掌も居る、それから機関区の整備をやっている人とか、いろんな人が居る訳ですが、その二・二八事件が高雄まで伝わるのに時間が掛かりましたね。それは台北でワァーッとやり始めたら途端に高雄…と、そんな事ではないですね。

ですから、台北から新竹、新竹から台中、台中から嘉義、もう昨夜は嘉義でやり始めたから、明日はきっと台南に来るぞ…などと云う話が、鉄道官舎ですから運転士が往ったり来たりして見聞して来て、北の方の都市でこんな事が起った、ああした事があったという様に官舎中に伝わりまして、皆もう、少し昂奮して居てその内どうせ高雄だろう…と云って緊張していました。

高雄まで何日掛かったか?三、四日だった様な気も致しますが、その三日めか四日め位に、私、何時もの様にカバンを背負って、通学路になっている高雄駅前の大きな広場を通り、そして駅の改札口の近くを通るのですが、でもね、そんな大事件になるとも何とも判らない訳ですよ。判断もつかないし中学校1年生ですしね、それでその、普通に其処を通りましたらね、何かちょっと物々しい感じなのですよ、それで「オヤッ?」と思ったら、改札口外側のビルの陰やら、何かにですね、その辺の野菜を売っている人や、行商している人が天秤棒を持って、隠れて待ち構えて居るのです。

なに事か?と思ったら、それは結局どういう事かと云いますと、北部から要するに銀行の金をさらったとか、何処かで掠めた物とかをしっかり担いで、そして皆そのいわゆる外省人がですね、中国人が南にどんどん逃げて来ている。此れは鉄道の情報で伝わるのですね、だから、そう云う奴は決して見逃さないぞ…と云う事なのです。それでその辺や駅前広場で物売りをしたり、屋台をして居たりする人達が天秤棒持って待ち構えて居る、其処へ私、登校時に通り掛かったら、丁度その時、一人改札口から出て来たのです。私が見たのは、その一人ですが、他にも居たのだと思います。

最初に出て来た奴は今になって思うと、ちょっと可哀相な…と云う気もしますが、あの頃は子供心にも凄い敵愾心がありましてね「もう当たり前だ!」てな感じでした。その出て来た奴は、それが何か本当にパリッとした背広を着てですね、そして本当に札束が詰まっている様なジュラルミンの鞄と云うかケースを持って、本当にマンガか映画そのもの的な格好をして、如何にも大金を何処からかせしめて南に逃げて来た感じなのです。

今はもう、そうでも無くなったのですが、あの頃は一目見れば此れは台湾人か中国人か判る時代なのです。それで改札口を出た途端に、ウワァーッと皆が襲い掛かった。そうしたらそいつは必死になって逃げた。只そのジュラルミンの箱だけは放さないのですよ。随分重たそうなやつをですね、駅前広場を一生懸命逃げて、とうとう追い詰められて、殴られて、其処でへたばって仕舞ったのですが、へたばった其奴に群衆が「そのトランク開けてみろ!」と言うのです。私は皆と輪になって見ていたら、何と、そのジュラルミンのトランクぱっと開けたら、それこそあの映画でやっている、あれと同じですよ。銀行強盗の手の切れる様な札束、ずらっーと並んでいる。あんな光景本当に実物として初めて見たのですがね、其れを、其のトランクを全部ひっくり返して、そうしたら札束が山積みになったところで、「よし!火を点けろ!焼いちゃえ」と言って誰かがマッチを擦って燃え始めた。

私ね、私の家、貧乏でねぇ「勿体無いなぁ…」と思ったけれど、さすがに同じ様に思った人も居たのですね多分、囲んでいた人や燃やしていた人にもね、其処で其の人が何と言ったかと言うと、「ここに誰か乞食は居るか?、乞食なら取っても良いぞ…乞食は居るか?」いや実は、当時台湾は本当に疲弊していまして、街に乞食が沢山居たのです

「乞食は取ってもいいぞ…」そしたらですね、あれだけ沢山居た人の誰一人として手を出さない、誰も手を出さないのですよ。皆そこで、じーっと燃えて行くのをね、灰になるのを見ていた。私は大分大きくなってから「あれは立派なシーンだったなぁ」と思いました。本当にもう、あの中のお札の一枚か二枚でも有れば、本当にもう一週間ぐらい何か食えると云う様な、そんな人も沢山居た筈なのに、誰一人手を出さない。やはり一つのプライドですね、「自分達はそんな泥棒・強盗のたぐいじゃないのだ…と、自分達は大義の為にやっているのだ。」とそう云うプライドが、その人達には漲っていたと云う感じでした。それで、私はその足で高雄中学に行くと、校門の所で先輩が待って居ました。

その中学全部で六学年あるのですが、私はその最初の第一年ですね、六年生と云うのは居ないのです。五年生が最上級生です。丁度日本時代と中華民国時代の学校制度の変わり目ですね、それで要するにその中学五年生という言わば、我々が高級二年生と言っていた高校二年生に成る先輩、これが校門の所に待っていて「皆、教室に行かないでいいぞ、講堂に集合だ。」と言うので、私は講堂に行きました。高雄中学は随分立派な校舎でしてね、講堂はぐっと広いのです。講堂に集められて大体何の事か察していたのですが、其処に、ドカドカドカッと上級生が、そうですね十人か二十人位入って来ました。

入って来た彼らは何とゲートルをしているのですよ、あの旧日本陸軍の巻き脚絆ですね、あの連中は日本時代にゲートルをして軍事教練を受けて居るのですよ、そこで、ちゃんとゲートルを持っていて、それを巻いて、そうして何時隠したのか知らないけれど、講堂のあの演壇がありますね、あの演壇の床を開けたら、三八式歩兵銃がドカッと出てきまして、何時何処から持って来て演壇の下へ隠したのか判りませんが、自分達もやらなくちゃいかん!という事で、何処からか調達したのですね。

それで、ゲートルをした高校二年生の彼等が、小銃を小脇に構えて立哨姿勢で居て、ばぁーと緊張の気配が漲りましてね、そこで先輩が「これから言う事をよく聞け…これから大変な状態に入る。だから我々は高雄市と高雄中学を守る為に戦うのだ。それで、これから軍隊編成にするから…」と宣言して、全体を一大隊として何個中隊かに分け、私はその中隊の中の、第何小隊の何とか班とかに編入されて、みんな、きちーっと軍隊編成で分けられて、又それぞれ任務がありましてね、誰々は斥候で何処其処の、学校の校舎の、こっちの鉄道側の、端っこの方に立って、どっち方面を警戒する…とか、だれそれはこっち方面だとか、なに班は誰だとか、全部それをやりましてね、そうしたら何か、もう言い知れない実に奇妙な感じですよ。その西も東も分からない、単なる中学一年生が急にそうやって戦うのだ…と言う事になりましたが、その高校二年生達は本気なのですよ。それで、とうとうその日は何事も無かったのですが、市内では、もう市役所とか、警察署だとか、その他幾つかの公共の建物は、すでに中学生や市民の人達が行って占領して、次々と戦果の報告が来ます。何処其処はああして、こうして、奴等、憲兵隊の連中は高雄の山へ引揚げた…とか、その山と言うのは寿山と云うのが有りまして、寿山は日本時代から高雄港を守る為の要塞だったのですね、本当に堅固な要塞で市内の中国兵達は、皆競って山へ立て篭もってしまったのです。それでこの要塞に対抗するのは、絶対に此れはちょっと無理なのです。向うは強力な武器持っているし、こちら市民は武器などは、ほんの少しだけです。銃は多少有りましたけれども。

それで、「勝った!勝った!」と言って、何処其処の何々を接収して、どうなった、こうなった、と言ってですね、それから多数の政治犯や、政治犯にされた人達が捕らわれて監獄に収監されていましたが、これを全部解放して釈放したとか言いまして、色々な景気のいい情報が飛びこんで来るのです。そこで我が中学生達が、私も大変昂奮して…その日は「解散!」で家に帰った。明日またちゃんと来いよ!で翌日、私また学校に行ったのです。

そうしたら、半分位来て居ないのですよ、学生がね、後で聞くと「危ないから学校へは行かない方がいい」と言って親に止められたり、自分で怖気をふるって出て来なかったり…。

まあ、スローガンは勇ましいけれど、現実はそんなものですよ。其れで、私は学校へ行きましたが、何事も無しで家へ帰りました。その間、台湾人は皆自分の家へ引きこもって、「どうだ、こうだとか、新しい高雄を創ってああする、こうする」等々…そんな気分でした。私は鉄道官舎で、あの頃、日本人で機関技師でしょうか、鉄道関係の技師で徴用されて日本に帰らないで、未だ残って居た人が居ました。技術をちゃんと教えてから帰ってくれと、そう云う事で残っていた人が居ました。その何とかさん、と云いましたけれど、その小父さんがですね「ちょっと市内の様子を偵察したいから、一緒に付いて来ないか?」と言われて、その小父さんの子供と私も一緒に付いて行って、しばらく行くとババーンッ!と、何事の銃声か分からないのですが、銃声が回りに聞こえましてね、未だ高雄の周辺には兵舎が有り、その兵舎に残っている兵隊も居て、全部が山の要塞に逃げた訳ではないのですよ。そう云う兵舎の兵隊達と誰れかが、やっていたかも知れない?とも角もの凄い銃声が起ってきたもので、これは危ない、逃げよう逃げよう…とその小父さんと一緒に鉄道の官舎に急いで逃げて帰ったと云う記憶があります。

さて、それからですね、やはり鉄道関係ですから、段々と今度は北部の状況が伝わって来る訳です。非常に早いのです。それは何かですね、その大陸から援軍が来た…と云う情報で、実際は後で判った訳ですが、蒋介石が援軍を寄越して基隆から上陸して来たのですね。その噂がパーッと伝わってきまして、それでその頃は解らなかったのですが、兎に角、北部で人が沢山殺されている…、どうにも此れは危ない、中国軍が沢山入って来て、どんどん南下してきている…と云う様な状況でですね、大分その怖くなって来た。そして、その間も、私の兄貴、同じ高雄中学の高校二年生、最上級生ですね、この兄貴もゲートル巻いて三八歩兵銃持って守って居た一人なのですが、それが、この危なくなって来たと云う状況で、翌日も何時もの様に学校へ出掛ける…と言うので私の父や母が止めて「何かもう危ないので、高雄まで未だ来ていないけれど、もう北部から攻めて来ているから、もうお前行くな」と引き止めたのですが、兄貴はそう云う事に動ずる素振りも見せない男なのです。「いや、自分はクラスメートの人達と、今日も何時に集まると言って、きちんと約束したのだから、自分は行かなければならない、約束なのだから…」と言ってですね、親の止めるのを振り切ってゲートル巻いて行って仕舞いました。そうしたら、その日が丁度何と言いますかね、事件の分水嶺になった訳ですね。ここから後はもう敗戦ですよ、 状況としては、もう中国兵達も情報で援軍が来たと云う事で、山の要塞から中国兵が下りて来るのですが、その時に高雄市議会の議長と何人かの議員が、市民代表と云う事で山の要塞に「武力は使うな」と言う事を交渉しに登って行ったのです。

市民代表で市議会の議長がですよ、そうして着いたら、交渉の使者なのに有無を言わさず、其の場で殺しちゃった。

この殺された議長さんの息子さんは、有名な方です。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、許国雄さんと言う方です。それから、許国雄さんのお父さんと一緒に登って行って亡くなった方で王石定さんと言う方、これは非常に人望の有る方でしたが、この方も其処で殺されました。私そのご家庭の悲劇はよく知っています。後にその王石定さんの残されたお嬢さんの家庭教師をやったわけですので。

兄貴の登校した高雄中学ですが、問答無用で殺されると云う様な事が有って、もう此れは、いよいよ危ないのだ、と学生達は高雄中学の教室の窓のところへ椅子や机を積み重ねてですね、窓際から狙って入って来たらやるのだ!と言って、それで何人か射殺したそうです。私、実際名前は言いませんが「俺は撃ち殺したのだ」と言った人を知っています。それでそのときを最後に、いよいよ危ないと云う事で、大隊長が皆を一つの教室に集めて、「これで、もう自分達は此処までだ」と、だからもう団体行動は取らない。もう取り巻かれているかも知れないから、後は各自、それぞれの才覚で命を全うして逃げる…と云う事で、其処で解散式をやったのですね、それが二十人足らず。もう大部分の人は怖がって来なかったので…と云う話です。最後まで約束守って来たのは此れ位でした。

それで兄貴は、勿論、銃は置いて、そうしてゲートルもほどいて学校を出たのです。高雄中学をご存知の方はお分かりと思いますが、高雄中学は高雄市の三塊と云う所に在りまして、三塊は市場なのです。市場と言いましても、今のスーパーマーケットみたいな洒落たものじゃなくて、この、要するに昔風の市場でしてね、路地が入り組んでいて、家もこう非常に建て込んでいる…そう云う区域でして、学校は其処に隣接しているのです。

私の兄貴はですね、学校のどこか横門からスルッと抜けて、その迷路みたいな所に迷い込んで、どうにかして帰りたいのですが、私の家は鉄道官舎ですから、駅を挟んで向う側、高雄中学はこちら側なのです。何とかして駅を通り抜けて帰りたいと思うのですが、駅周辺はもう絶対に危ないに決まっている、公共の場所はですね、それでその辺をさ迷っていて、その頃もう高雄中学には色々な所から、既に兵隊が入って来て居るのです。

本当にもう間一髪で逃れた様な感じなのですが、うろうろ其処らをさ迷い、どうやって帰ろうか?と思って居たらですね、通りの路地の、或る家のドアがパッと開いて、いきなり引っ張り込んで呉れたのです。そうして「学生さん!あんたそんな格好で、学生帽など被って、こんな所に居たら殺されちゃうよ!」と言って引っ張り込まれて、その家の方がかくまって下さったのですね、ずうっと匿って呉れて居ました。私は家に帰って居たのですよ。

ところが、私の家では、兄貴が帰って来ない、それでもう母がですね「だから行くなといったのに」と言って嘆いてですね、ずうっと帰って来ない、一週間帰って来ない。それでもう、てっきり死んだものと思っていたのです。そこへ又、何か色々と耳にするのは「高雄川のあたりで、死体が積み重ねられて、高雄川は血で真っ赤になっている」とか大分オーバーな話もあったのだと思いますけれど、あぁ云う時の話は、とかく誇大になる訳ですね。勇敢な学生さんが、いっぱい死んで、こうこうだとか…。そんな話が入って来るのを、家で聞いて居られないのですよ。

そうして、とうとう完全に要塞から下りて来た中国兵、それから付近の兵営から来た中国兵達が全部高雄市を抑えちゃった。そうして今度は捜索に来たのですね、捜索に来て鉄道官舎の私どもの、その中の一角が特に重点的な捜索対象になりまして、と言うのは鉄道線路がありまして、その線路の上を陸橋が跨いでいます。その陸橋をずぅーと真直ぐ行くと台南に行く訳ですが、その方向に鳳山と云う街があって、その陸橋の所を、この事件が始った時に、街の兵舎の兵士達が避難する為に陸橋を通って、何か台南の途中か何処かに避難しようとして居た訳ですね。それをずぅーっと台湾人の市民が見張っていて、鉄道官舎の所に小銃を持って来て…大分有りましたよ、十丁位有ったと思いますが、十丁位でも凄く魅力なんですね、そして待ち伏せをしてですね、あの軍隊が陸橋を通る所に対して一斉射撃やっちゃったのです、で向うも応戦しましてね、私の家の瓦などいっぱい弾丸が当りまして、私の家は如何したかと云うと、みんな畳を上げましてね、日本風の官舎でしたから畳なのです、その畳を上げて窓の所へ配置しましてね、そうして床の下、縁の下へ入ったのです。私は帰台するつい一両年前に、日本で空襲に遭った時に縁の下に潜って居た時の事思い出しましたが、そうやって縁の下に、小さくなって潜って居る上でドンパチやっている様な事が有ったものですから、鉄道官舎、これは不穏分子が潜んでいるのだ。と云う事でして、鉄道官舎にわざわざ来ました。剣付鉄砲持ったのが、だぁーっとやって来ましてね、一軒一軒私の家も、玄関をばぁっと開けられて、土足ですよ…勿論土足で畳の上へ、いきなり、うわっ!と上がって来て家中掻き回して日本風の官舎ですから、あのふすまがあって、襖の奥は押入れで何かが有る…と判っていて、それで、その襖を軍靴でばぁーん!と蹴飛ばし、突き破り銃を構えましてね、誰か居たら殺す訳ですよ。

幸いと言うか、誰も入って居ないですよ、私の家は親と私達子供しか居ない訳で、それで連中、部屋中捜索して出て行きました。

連中が去った後で「あぁ、兄貴が居たら、どうなっただろう?」と思ったのですが、それから幾日経ったか、はっきりしませんけれど数日経ってから、一人の農夫があの台湾の農夫特有のあの笠を被り、農民が着るボロボロの破れた服を着て、私の家の玄関にすっと入って来た。これが兄貴なんですね。ほんとに奇跡的に助かって匿ってもらったと云う事ですね。その後、ほとぼりが冷めてから家の母親と父親が、その匿って下さったお宅へお礼に行きましたけど、まぁ、その様な状況で色々な事が有ったのですが、少し端折りますが、この、ほとぼりが冷めて高雄中学の校長先生は引っ張られて、林景元校長と云いましてね、この方は小学校を出ただけで、中学も出ていないのですが、全部検定、検定で、数学教師の資格を取りまして林景元と言えば数学で有名な方です。この方が我が高雄中学の校長先生でした。それで林景元校長が学校へ戻って来ました。戻って来られた時には、もう新任の中国人の校長が居ました。それで林校長は復職も何も得られないで、戻って来られた時に一番印象的だったのは、彼は要塞に連れて行かれたのですね、そこで拷問を受けて銃剣で突かれたのですね、眉間に切り傷を付けて学校へ戻って来たのです。

学校の教員が三、四人死にましたね、あの満州に建国大学と云うのが在りましたが、其処を卒業して、えらく体格の良い、とても戦闘的で勇敢な先生が居ましたが、この方もそれから教務主任の先生とか、三、四人死んで、結局そう云う事でやっと、高雄は平穏な状態に治まって来ました。

間もなく学校が再開して、私は又、駅の前を通って高雄中学に行く事になります。そうした或る日、駅前を通った時に何かすごい黒山の人だかりがして、あれ!何だろう?と私は人と人の隙間から、ちょっと覗き込んだらですね、うわーっ私、見たくて見た訳ではないですよ、「何だろう?」と思って野次馬気分で見ただけです。もう判っていたら、あの様なもの、私絶対見たくない。銃殺されたばかりの生々しい死体。私は銃殺の銃声も聞いていないから、分からなかったのですが、多分銃殺されて二十分か三十分か,其れ位経っていたのかも知れません。只、血は未だ乾いていませんで、じわじわ、じわじわ広がって流れているのです。高雄駅前は一面にアスファルト舗装になっていて、少し傾斜になっていますからね、血が地面に吸われる事なく、アスファルトの上を、ずぅっと流れていって傾斜面をものすごく広がっているのです。私、その時に感じたのは、たった三人なのですよ、銃殺になったのは…でその三人からですね、あんなに沢山血が出るものかと思いました。人間ってこんなに沢山血を持っているのかと思いました。もう一面に真っ赤に広がりましてね…今でも忘れられない凄い記憶です。

それで、この事件は何かと云うと、人の話によれば、高雄監獄に行って台湾人の囚人を解放した人達ですね、それで彼等は後ろ手にくくられてトラックの荷台の上に乗せられて、後ろ手に括ったところに、あれは何と言うのですかね、立て札みたいなものが差してありまして、それに名前と何々と何々で銃殺と記されて、それで彼等は後ろ手になったまま、足も縛られているのですよ。その状態でトラックの荷台に横になって運ばれて来て、駅の前へ来てですね。トラックの荷台から蹴飛ばされて、突き落とされて。

此れは、私、見たのではないですけど、銃殺刑と云うのは、やはり日本でも二・二六事件の後いろいろ有って、それはその、やはり名誉ある死刑で、受刑者からは一定の距離を置いて格式をもって射撃されると思いますが、如何なる場合でも、人間の名誉と云うものがあると思うのですけれど。手足括られているのに荷台から突き飛ばして、蹴落としてですね、もう銃殺なんてものでは無いですね、つかつかっと歩いて来て、顔の直前にひとつづつ銃口付けてだそうです。私、それは見た訳ではないですが、その凄い血がいっぱいになっている所は、私、見ました。

その時にですね、私とても忘れられないのは、一人名前を覚えているのですよ。括られて名前を記されて、何の罪状で銃殺されると書かれた札の、その名前はですね顔再策と云う名前でね、私があの、何となく名前を覚えているのですよ。そうしたら其の内ですね、平穏に戻って普通の授業が始る様になってから、この顔再策と云う人は高雄中学の先輩でですね、私より大分上なのです。五つとか、六つとか、ずっと歳は上の方なのですね、でこの人の名前なぜか覚えている。そして、この人が私の生涯通じて忘れられない名前になったのです。

それから四年ほど、いや五年ほど経って、私は高校三年生になりました。高校三年生になるまで、その間,私はひたすら、あの頃は中学一年ですが中一のくせに、いっぱし生意気に二・二八事件てのは…その、いやぁ政治がおかしいとか何とか、いろんな事生意気に私も言って居たのですよ。だけど、もう凄いあの血みどろの光景を見て、もう全身の血の気が引いて…男の子ですから、やはり何か多少ね意地だとか、勇気だとか男気みたいなものが少し有る訳ですよ。それが、そんなものは瞬間的に冷え切ってしまって、萎んでしまい、もうただ、ただ怖いばかりで、私は今まで生意気に政府のあゝ云うやり方は悪いとか、これは、おかしいと言っていたのだけれど、もうこんな事はね、これからの自分の生涯で金輪際こう云う事は絶対言うまい…政治に興味を持ったり、係わったりする様な事は絶対やるまい…と心に誓った訳なのですが、そういう状態で高校時代は大人しいものですよ。

ちゃんと、もう真面目に勉強して一生懸命勉強して大学受けよう…と云う事で、丁度受験の準備をしていた其の時にですね、或る日、学校から帰る時に、あの辺、先ほど申し上げた市場ですよ、市場のその通路にござを広げて古本を売っている人がいました。

百冊ぐらい古本並べていて、私そこの茣蓙の前を通り掛って、古本を見たら赤い表紙の本で大分古いのですが、「チャート式幾何学」と云う本があるのです。“チャート式”と云うのは今でも売っていますね。あれは随分、戦前からの古い参考書ですね、受験参考書です。あっと思いまして、私は理系志向でしたから、何か良い参考書有るかなぁ…とこうやってパラパラと頁をめくって、一番最後の頁めくったら、そこに元の持ち主の名前が書いてあるのです。顔再策と書いてあるのですよ。私もう本当にね全身、何と云う感覚なのでしょうか、ゾーッとすると言うか、その不思議な因縁に、戦慄のきました。

この顔さんも、かつては私ぐらいの頃、彼の青春があって一生懸命、大学を受けるため、この幾何学を勉強したのでしょうね。そうして、彼が死んだ後彼の残した受験用の参考書とか、これを彼のお父さん、お母さんがきっと生活に困って売りに出したのでしょう。私が、たまたま此れを見つけたのは、何の因縁だろう…と云う事でね、私、早速それを買いまして、それで勉強して、ずうーっと持っていました。大学卒業して兵隊に行って、それから後、台湾大学で三年間助手を務めるのですが、ずうーっと持っていました。で、とうとう昭和三十六年、日本に来る時に日本まで持って来る訳にいかないので、置いて来ました。もう多分無いと思いますけれど、何かあの、ある種の因縁を感じる訳です。

只ですね、あの日本に来たら、金輪際何とかって言っていても、人間てのは,好い加減なものでね、咽喉元過ぎれば熱さ忘れる、て言いますがね、段々、段々と何か大胆になりましてね、あんな政府、国民党政府、ぶっ倒さなければ駄目だ!本当にもう、どうしょうも無いってな気になりましてね、それで今日に至って居ると云う、こう云う次第でございます。

どうも、ちょっと時間オーバーして申し訳ございません。

二月二十八日、東京市ヶ谷の私学会館における二・二八事件五十周年記念講演会で


引用元: 私が体験した二・二八事件,
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Du0geFJS5skJ:www.wufi.org.tw/jpn/yinming228.htm+&cd=6&hl=ja&ct=clnk