乃木大将




■7.暁天の星■
 9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することと なった。出発の前夜、送別の小宴が開かれた。乃木大将は体調 が悪く、欠席とのことであった。

 宴が終りに近づいた時、にわかに入ロの戸が開いた。一同起 立して不動の姿勢をとったと思うと、戸ロの方に乃木大将が立 っている。

 覆いがたい憂愁に打ち曇ったその時の顔色は、忘れよう としても忘れることはできない。・・・将軍は微笑だにも 漏らさず、しずしずと食卓の上座まで来て、私たちと握手 を交換し、切れるような日本語で従卒を呼んでシャンペン の盃を取った。再ぴ私たちに向って、淋しいながらも温和 な色を浮べて、左のような意味を述べた。

・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、一言を呈せ ずにはいられない。しかし訣別の辞を呈しようとするので はない。願わくはお互いの友情を、永久に黎明(れいめい、 夜明け)の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。暁天 (ぎょうてん、夜明けの空)の星は次第に眼には見えなく なる。しかし消えてなくなることはない。我々は諸君に会 わず、諸君も我々に逢うことがないにしても、各々何処か に健在して、互いに思いを馳せることであろう

 言い終って将軍は盃を揚げる。一同もまた黙々として盃 を揚げた。やがて将軍は幕僚をふり返って、少しく意気を 起して「万歳」を叫んだ。人々例によってこれに応じた。 この懐かしい叫びは三度鳴り渡った。将軍は再び握手を交 換して、またしずしずと入口の方へ去った。振り返って一 座を見渡し、微笑を浮べて型のごとき挙手を行い、急に転 じて出て行ってしまった。

 これが我々の親愛なる老将軍乃木の見納めであった。

■8.別れ■
 翌朝、ウォシュバンらは、一戸少将以下、6名の幕僚に見送 られて、法庫門を出発した。行くこと一マイル、郊外に出ると、 一戸少将は馬を停め、こう言った。

日本人は、友人と袂(たもと)を分かつことを好まない。 私も今告別の詞(ことば)などは申さない。ただ私たちは 此処(ここ)に馬を駐めているから、諸君は途の曲るとこ ろまで行ったら、振り返ってこちらを見て下さい。私が手 をふったら諸君も手をふって下さい。それをお互いの別れ としましょう

 私たちはそのまま馬を進めたが、胸迫って涙を抑えるこ とができなかつた。永い間生活を共にしてきた軍人たち、 今は友愛の情切なるものもできているのである。法庫門か らの奉天街道が、渓(たに)の細路に通ずる地点に達する まで一マイルは十分あって、そこから細路が東へ東ヘと迂 回して行く。その地点に達した時、かねての注意に随って 振り返って見た。遥か彼方に騎馬の群が見えていた。私た ちは手をふった。肥えた黒馬に跨(またが)った姿に白く ひらめくものが見える。それは一戸老の手巾(ハンカチ) を振っているのである。
 これがいよいよ日本帝国の第三軍との別れとなったのだ。


引用元: JOG(218) Father Nogi,
http://www2s.biglobe.ne.jp/%7Enippon/jogbd_h13/jog218.html