白襷抜刀隊

三島由紀夫、そして、白襷抜刀隊三千名
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                       西村真悟


十一月二十五日は、四十一年前の昭和四十五年に、三島由紀夫楯の会の森田必勝が、市ヶ谷の東部方面総監室で割腹し自決した日だった。午前十一時、楯の会の者数人と、自衛隊東部方面総監室に入った三島由紀夫は、総監を縛り上げ、テラスに出て自衛官を集めて憲法改正のために決起を促す。しかしマイクがない。上空には異変を察して取材のヘリが舞うので三島の声はかき消された。
そこで、三島は演説をあきらめる。その時、テラスで抜き身の関の孫六を見つめた。総監室に戻り、皆で「天皇陛下万歳」を叫ぶ。次に、上半身裸になって腹に刀を突き刺した。 介錯された三島の首が床に落ちた。続いて、森田必勝が割腹し介錯された。

その時私は、京都にいた。
十一月二十五日の昼前か、大学から左大文字山の麓の白河の東にある学生寮に戻ろうと歩いていた。学生寮の門の手前の垣根にきたところ、門から寮生が飛び出してきた。そして、出くわした私に、「今、三島さんが、自衛隊に討ち入っている」と言った。その時、彼の顔に晩秋の日があたっていた。 彼の顔に当たる木の葉の影の形を今も覚えている。私は、はっと、「三島さんは死ぬんだ」、と感じた。それを彼に言ったのか、感じただけなのか、定かではない。 
昭和二十二年五月三日に施行された憲法と称する文書(以下、憲法という)によると、自衛隊は違憲である。 しかし、自衛隊は存在し、自らを違憲とする憲法を命をかけて守ることを任務としている。

三島さんは、自衛隊を愛し、これを矛盾とも思わない戦後日本では、日本は日本でなくなると憂いた。そして、自衛隊に決起を促し、自決した。 それから四十一年が経った。 
現在、三島さんが言ったとおりになっている。「無国籍で、無機質で、ニュートラルで、抜け目のない」、日本の国体のことなど考えたこともない輩が政権を握り、抜け目なく損得の計算をしただけで、我が国の国柄を破壊する「TPPと称するアメリカの多国籍・無国籍の巨大企業体の罠」に我が国を提供しようとしている。三島さん、今こそ、「鞘鳴り」がしている。しかし、刀の汚れになる奴ばかりだ。 

しかし三島さん、喜ぶべきこともある。 
国難の中でそれが見えた。三月十一日に発災した東日本巨大地震・巨大津波の大惨害の中で、同月十六日、天皇陛下は直接国民にお言葉を発せられ、被災地国民を救助、救援するために不眠不休で働いた組織に対して、労をねぎらい感謝の思いを表明された。そして、自衛隊は、筆頭に位置づけられてその言葉を賜ったのだ。
また四月二十七日、被災地を視察するために自衛隊松島基地に降り立たれた天皇皇后両陛下に対して、自衛隊の災害統合任務部隊指揮官の君塚東北方面総監が、鉄兜に野戦服という完璧な戦闘中の軍人の姿で、正面から敬礼しお迎えした。
これは戦後初めての情景である。
万世一系の天皇陛下の前には、この自衛隊を違憲とする憲法など存在していないのだった。本年、巨大地震の国難の中で、日本の再興は必ず成る、との確信が得られた。
三島由紀夫の霊よ、降りてきて共に喜び、大和魂による国家再興を励ましてくれ。

次に十一月二十六日のことを述べたい。 
百七年前の明治三十七年(一九〇四年)、三千名の白襷抜刀隊が旅順要塞に突撃し玉砕した日だ。世界史的に古今の最難戦となった旅順要塞攻撃において、この日午前八時、第三回総攻撃が発令された。しかし各師団の攻撃は、ことごとく失敗に終わった。
ここにおいて乃木希典第三軍司令官は、中村覚歩兵第二旅団長の熱心な意見具申を受け入れ、特別部隊による攻撃を命じる。それは夜間、刀と銃剣で敵陣に突入する奇襲であった。そこで乃木軍司令官は、目印の白い襷をかけて整列した三千名の全将兵に、次に通り訓示した。

「・・・国家の安危は、我が攻囲軍の成否によって決せられんとす。予はまさに死地に赴かんとする当隊に対し、嘱望の切なるものあるを禁ぜず。諸氏が一死君国に殉ずべきは実に今日にあり。こいねがわくば努力せよ。」 
このあと乃木は、整列する将兵の間を歩き、滂沱の涙を流した。ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言った。 
白襷隊三千名は、同日午後六時に行動を開始し、午後九時前より松樹山方面(要塞の東側)の敵陣に突入して激烈な攻撃を開始した。そして、敵の大砲、機関銃、小銃、手投弾、地雷により中村隊長以下二千名の死傷者を出して部隊として消滅した。日露戦争の旅順以外の戦場でのロシア側記録には(確か、黒溝台の激闘か)、突入してくる日本軍兵士は狼より凶暴である、と書いているものがある。
しかも、この旅順の要塞に刀と銃剣だけで突入した兵士は、もともと生きて還る気のない文字通り剽悍決死の士三千名であった。

では、ロシア側記録には何と書いてあるのか。 
以下の通りである。
「・・・実に、この精気に強き日本軍が、精気の弱き露西亜軍を屈服せしめたるなり。 余は敢えて屈服という。されど一九〇五年一月一日の開城を指すにあらず。その前年の暮れ、即ち、十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。 ・・・敵味方合して五百余門の砲台は殷々として天地を振わしたりといわんのみ。しかもその天地の振動に乗じ、数千の白襷隊は潮のごとく驀進して要塞内に侵入せり。総員こぞって密集隊、・・・白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変えざるを得ざりき。余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く。「屈服。」(以上、岡田幹彦著「乃木希典 高貴なる明治」展転社刊による)。

この本は乃木希典第三軍司令官を愚将とし白襷隊を兵の無意味なと殺とする司馬遼太郎著「坂の上の雲」全巻を価値において遙かに凌駕する。売文家としてのおもしろさは別。 
旅順要塞が陥落しなければ、三島由紀夫さんも我々も、日本人として生まれていない。 
その旅順を落とした功労の一位に挙げられるべき白襷抜刀隊のことは戦後の風潮の中で無視されるどころか、司馬史観によってむしろ馬鹿だと卑しめられている。 
三島さんの自決した昭和四十五年には、司馬さんの「坂の上の雲」は、全巻世に出ていたと思うが、三島さんは、どう思ったであろうか。
三島さんと森田必勝の二名は、自決する覚悟で、市ヶ谷台に乗り込んだ。白襷隊三千名も死ぬ覚悟で旅順の要塞に乗り込んだ。 その君国のために思い決した姿は、同じだ。 
私は十一月二十五日の三島さんの自決の日と 期せずして翌日の十一月二十六日の白襷抜刀隊の旅順要塞突入の日を共に忘れることができない。 
 (西村眞悟前衆議院議員)