靖國神社への思い

昭和の大戦に出征したお年寄りのなかでも、昭和の大戦を戦ったことに誇りをいだいておられるかたと、そうではなく酷い目にあったと考えられておられるかたとがはっきりわかれることに私はまえまえから怪訝の思いをいだいていた。

その理由がこの敗戦後のGHQによるウォーギルトインフォメーションプログラム(WGIP)によるものであることがわかってきた。
WGIPとは文芸評論家の江藤淳氏によって示された、戦前の日本人と日本軍の行動を悪として、贖罪意識を日本人の頭の中に植え付けようと目論んだGHQの日本占領政策を示す概念である。

このWGIPの影響は出征した旧日本軍の兵士たちにも少なからず影響している。とくに戦争末期に徴兵された若年の兵隊たちにその傾向は強く、そうしたお年寄りたちは、戦後戦争への怨嗟を口にし、時には天皇を悪人として罵ったりすることもある。

じっさいにこうしたお年寄りたちは、戦場で塗炭の苦しみを味わったのであって、天皇や旧日本軍を悪し様に非難することを否定する資格は私にはない。
しかし参戦されたお年寄りたちの中でも、命をかけて日本を守り抜いたことを今でも誇りに思っておられるかたが少なからず存在するのも事実である。

たとえば仲間の慰霊のために三ケ根山に足しげく通っておられる、ある旧日本軍の兵士の方は、占守島で戦った経歴をもっておられる。

占守島の戦いとは、太平洋戦争末期の1945年8月18日~21日に、千島列島北端の占守島で行われたソ連軍と日本軍との間の戦闘である。ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に上陸、日本軍守備隊との戦闘である。

いわばこの戦いはソ連の火事場泥棒で、まさに典型的な侵略戦争であるといえる。結果的に日本軍はこの島を死守したが、その犠牲は大きかった。
ちなみに私はこの高齢の元日本兵のかたに頂いた名刺を、お守りとして財布の中に入れてある。

田母神さんの講演会には失礼ながら、足腰もだいぶ弱られておられるような高齢の老人がぽつぽつと参加しておられるが、こうした人々はほぼ間違いなくむかし従軍されたかたがたであり、田母神さんの発言を好ましく頼もしく思っておられることは間違いないのである。

檀家さんでむかしルソン島に出征された元陸軍の将校のかたは戦後しばらくは戦争のことなど口に出すのも憚られる雰囲気であったという。いうまでもなくWGIPが理由である。

しかし旧日本軍の軍人さんの中でもこのWGIPの影響を全く受けておられないかたが、戦後30年経ってフィリピンのルバング島で発見された小野田寛郎元陸軍中尉である。

小野田さんは、陸軍の諜報員養成機関として知られた陸軍中野学校に学び、特命を帯びて終戦をしらないままルバング島のジャングルに潜伏しておられた。特命とは日本軍が反攻に転じ、フィリピン奪還作戦を実施するときにそなえ、敵の情報かく乱と情報収集を行なうことであったという。そのために敵と戦って玉砕することを禁じられていた。

ちなみに玉砕とは戦後、極めて無謀で馬鹿げた死に方のように喧伝されたが、それは自らの名誉のために美しく死ぬことであって日本古来の武士道精神の神髄にほかならない。それは『葉隠』の「武士道とは死ぬこととみつけたり」の言葉に顕著に現れている。

ともかく小野田さんはおかげでWGIPの影響を全く免れたので、戦後日本の軽薄な風潮に我慢ならず、ブラジルに新天地を求められたのであった。

小野田さんは靖国神社について次のように語っておられる。

靖国の英霊にたいして心ならずも戦死された(本当は戦争に行きたくなかったのに戦争で死んでしまった)、という人がいます。しかしこれほど英霊を侮辱した言葉はありません。

 読者の皆さんの中には特攻隊のかたがたの遺書をごらんになったかたがいらっしゃるでしょうか。特攻隊の遺書には、「こころならずも(本当はいきたくなかったのに)」なんて書いてありません。私も当時、特攻隊のかたがたとほとんど同年齢でありました。私がもし当時戦死していて、「心ならずも死んだ」といわれたら侮辱されていると思って怒ります。
 当時の私たちは、死ということに拘泥しない、深く考えない、死んだら神様だと、そういう考え方をしていました。なぜかといいますと、戦争には若い者が先頭に立たなければ国の将来がないということをはっきりと考えていたからです。お国のために命をかけて働いているので、兵隊は普通の人の半額で映画館に入ることができました。それで「映画半額、命も半額、死んだら神様だ」などと笑いながら話していました。これが当時の私たちの戦死にたいする考え方だったのです。
 当時は徴兵令で、満二十歳になると身体に異常のない男子はみんな兵役につかなければなりませんでした。だから「心ならずも」というのかもしれませんが、それは当時の私たちの気持ちを表した言葉ではありません。すきで兵隊になったわけではなくとも、多くの人間は国のために死ぬ覚悟をもっていました。戦争に負けた後、戦後の教育で洗脳され、本当の日本人の気持ちを理解できなくなった人が、そうゆうことをいうのだと思います。

明成社ルバング島 戦後30年の戦いと靖国神社への思い』より


ソ−ス:小野田寛夫さんと靖国神社 - やっぱり、気楽にいこう!