1964年(昭和39年)10月10日東京五輪・ブルーインパルス

知らなかった。
記録集計にコンピュータを使用していて世界記録が即座に表示されていた、女子バレー大松監督の話を聞いたのを思い出す。



『昭和の特別な一日』 杉山隆男/著 新潮社 2012年発行

上空1万5千フィートの東京五輪 (一部抜粋しています)

鳩が放たれ、「君が代」が流れ、五輪のマークが空に描かれる。そしてテレビの中継は、ロイヤルボックスから開会式の模様をながめていた皇后が傍らの昭和天皇に声をかけ、ほら、とでもいうように笑顔で空を見上げている映像を映し出していた。

5人の航空自衛隊パイロットはオリンピック組織委員会からのオーダーに完璧に応えてみせたのである。

国立競技場の上空はマークを描く5機のF86よりさらに高い空からのその様子を息を詰めて見守っていた鈴木(防大1期生)は、彼らが旋回に入り、輪をかきはじめた時点で、これはいい、とすぐにわかった。

輪と輪のほどよい感覚も、機体の後尾から吐き出されるスモークがおむすびの形になることなく、なだらかに弧を描いているところもこれまでとはまるで違う。百数十回挑戦しながらただの一度として成功したことがなかったのにと、本番ではものの見事にやってのける。5人こそほんとうのプロフェッショナルだ、と鈴木は思った。

旋回を終えた5機はいっせいに機首を上げ、2万フィートまで上昇した。彼らはそこではじめて自分たちが描いた輪を目にしたに違いなかった。


5機を集合させて隊形を整えるために、編隊長が「ジョインアップ」と指示を出す。

「2番機ラジャー」 「3番機ラジャー」 「4番機……」

呼び応えるその声が無線越しに震えているのを聞いたとき、鈴木の中で熱いものが一気にこみあげてきて、眼の前がかすんだ。

それは、鈴木の後ろに座っていた同乗者も同じだったはずである。

F86セイバーと違い、T-33は複座と言って2人乗りのジェット練習機である。ただこれまでの訓練では同乗されることなど一度もなかったのだが、本番だけは、ブルーインパルス・チームの整備員を代表する形で整備小隊長が東京上空1万5千フィートから眼下に浮かぶ五輪を眼にできる特等席を占めていた。

スモークでつくられた五輪は色のムラもなく、絵の具で描いたように5大陸をイメージした、青、黄、黒、緑、赤できれいに色づけがされていたが、このときを迎えるまでには整備員たちのなみなみならぬ努力と試行錯誤があったのである。

スモークに色がつくのはエンジンの潤滑油に顔料の染め粉が混ぜてあるからなのだが、飛んでいる間にタンクの底に染め粉が沈殿してしまい、色が白濁したり、かと思えば、突然濃くなったりと、なかなか均一な色にならなかった。そこで原始的なやり方ながら、フライトの前には整備員がF86の胴体に馬乗りになった、タンクの中に長い棒を突っ込ませ、染め粉を少しでも溶かすためにかき混ぜることにした。それは、本番のこの日、入間を飛び立つ直前もつづけられたのである。

5色のうち、青、黄、緑、赤は比較的容易に色づけができたが、問題は黒だった。地上で試すときにはちゃんと黒いスモークなのに、1万フィートまで上昇すると、気温が急激に下がるため、茶色に変色してしまうのだ。改良を試みてさまざまに工夫を凝らし、試行錯誤を重ねた末、高度が高くても墨のような黒々としたスモークを出すことに成功したのは本番のわずか1週間前だった。

そうした整備員たちの労苦にチームは支えられていた。そのことへの感謝のしるしと、何があろうと天命を信じ、本番の間も全員で5人を支えているという一体感を地上で見守る整備員も感じとれるように彼らの代表に搭乗してもらったのである。そしてじっさい東京の空はその瞬間、7人のサムライをはじめ、オリンピックマーク・スモーク作戦にかかわった者たちすべてが歓喜を分かち合える空となったのだった。

引用元: じじぃの「上空一万五千フィートの東京五輪ブルーインパルス!昭和の特別な一日」 - 老兵は黙って去りゆくのみ,
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20121227/1356556623




 ――航空自衛隊にも花道を――

東京でオリンピックが開催されると決まったとき、防衛庁は五輪に備えて「オリンピック準備委員会」を設置、自衛隊は開閉式の全面に立つことになった。世界中に自衛隊の存在を発信する絶好の機会だったのだ。
入場行進で警察、消防と合同の演奏、国名プラカードを防衛大学生が掲げ、陸上自衛隊神宮外苑で祝砲を放つ。そして海上自衛隊五輪旗を掲げながら競技場トラック中央を厳かに進むという大役を担うことになった。
ところが航空自衛隊の出番がない。
なにかないかと考えた末、思いついたのが開会式に五輪を描くというアイデアだった。

――五輪を描くだって? いったい誰がこんなこと言い出したんだ? そいつは飛行機に乗ったことがないやつだろう――

パイロット達は始めこの話を聞いたとき、「まったく東京の連中は現場がわかってないよな」と真に受けていなかった。
それから開会式のおよそ一年半前から五輪マークの練習は開始された。
円を描くと簡単に言うが、実際はその形はねじれたり、渦を巻いたりひしゃげたり、およそうまくいったためしはなかった。
飛行機の特性上、宙返りは横から見るとアルファベットの「スモールエル」状になり、垂直の真円を描くことはほとんど不可能だ。巨大なエンジンパワーとパイロットの腕があれば、偶然真円ができるかもしれないが、五機全部が同時にそれを実現するのは人間業ではないと考えられた。
開会式を二ヶ月後に控えた七月、完成披露をかねた予行練習を行なった。だが関係者が見上げた五輪はいびつなままで、一様にため息まじりで黙り込んでいた。
そもそも一体ぜんたい、誰が五輪を描こうなんて言い出したのだ。国立競技場の上をパスするだけでいいじゃないか。
もうやめようよ。そんな弱音さえきかれた。しかし誰も本気で断念しようとは思ってなかった。
まさに開会式本番までギャンブルのような状況だったのだ。

――当時のパイロット達はショーの前日でも酒を飲んだ。そういった、おおらかな時代であった――

実は開会式前日はどしゃぶりの雨だった。
「普段のショーの前夜でも飲むことがありますが、本番でミスしたら酒のせいにされるので、ビールをコップに何杯かおしめり程度です。ところがあの日は食事を始めるころにはもう、雨はじゃんじゃん降っていた。誰かが『明日は雨だから開会式はノーフライ』と言っていた。
あのときのメンバーはいったん酒が入れば仕事の話なんか一切せずにひたすら楽しむ人たちで近くのビアホールで気勢をあげ、最後はおでん屋でしあげた。日付もかわって午前一時をとうに過ぎて店を出たとき、まだ雨足は衰えていなかった。だからすっかり安心しきって、ベッドに倒れ込んでました」

――空を見て心底仰天した。二日酔いで起きたら、当日は雲ひとつない晴天――

だが、開会式当日は、アナウンサーが「世界中の青空を東京に持ってきてしまったような」と表現するほど、すばらしい秋日和となった。
「おい大変だ晴れてるぞ!」メンバーは狼狽した。
彼らのうちのほとんどは、まだ前夜の酒が抜け切れていなかったのだ。入間基地に着いたとき、酒臭さを気づかれぬようにコーヒーを飲んだり幾度もトイレにいったり、上官の前でまっすぐ歩けるか自信がなかったので、Fー86F戦闘機のコックピットにそうそうにおさまった。そして二日酔いを醒まそうと百パーセントの純酸素をマスクから思いきり吸いこんでいた。

――ラジオの実況中継を聞きながらタイミングをはかっていた――

埼玉県の入間基地を14時半に離陸。神奈川県の茅ヶ崎から江ノ島、新横浜駅をめぐる一週約六分間の周囲コースを二百五十ノットで飛び、タイミングをはかっていた。
この日は江ノ島から東京タワーがくっきり見えるほど快晴だったので、電波誘導ではなく、直接NHKラジオから聖火ランナーの到着を聞くことにした。
実況中継に耳を澄ませながら、選手宣誓と同時に国立競技場へとまっしぐらに飛んだ。
ブルーインパルスは15時13分に赤坂見附上空に到達、高度一万フィート、速度二百五十ノット、六十度バンク、二G旋回を開始した。
「スモークナウ」十五秒後斜め下を見ると、自分が描いた青いスモークが見えた。
三十秒後、最後はフルスロットルで煙の緒に突入。操縦桿のトリガーから指を離し、スモークを切った。


――あんな晴れがましい気持ちで、飛んだのはこのときだけだった――

すべてをやり終えた五人は、自分の輪を確認しようと賢明に上昇した。五輪のできばえは見事だった。「やった!やった!」と酸素マスクのなかで絶叫した。
五人はのちにブルーインパルスを離れるが、地球を宇宙の入り口で見つめる体験よりも、思い出深いのはやはり東京五輪のフライトだと、いまでも彼らは口を揃える。あんな晴れがましい気持ちで東京の空を飛んだのは、あとにも先にもあのときだけだったと。

ブルーインパルス~著・武田賴政』より抜粋させていただきました。

引用元: ブルーインパルス秘話その①~東京オリンピックの裏話 - ウインドチャイム~詩 小説 エッセイ - Yahoo!ブログ,
http://blogs.yahoo.co.jp/aberumind/55190439.html




今年はいよいよ五輪イヤーだが、多くの日本人にとって思い出に残るのは1964年の東京五輪だろう。同年10月10日の開会式で国立競技場上空に描かれた五輪マークは、まさにその時代の象徴だ。その五輪マークを描いた飛行チーム「ブルーインパルス」の苦闘について、ノンフィクションライターの武田賴政氏が解説する。

* * *
ブルーインパルス(青い衝撃)」は、静岡県の航空自衛隊浜松基地で一九六〇年に誕生した曲技飛行チームだ。パイロットは編隊長の松下治英を筆頭に、淡野徹、西村克重、船橋契夫、藤縄忠と、予備機の城丸忠義を加えた六人。当時二十代から三十代前半の若い戦闘機教官から引き抜かれた腕っこきばかりだ。

東京五輪スモーク作戦”を発案したのは、かつて帝国海軍連合艦隊の航空参謀として名を馳せた源田實。「ハワイ真珠湾奇襲作戦」の立案に携わり、戦後は航空幕僚長から参院議員に転身したカリスマである。源田の号令の下、これを具体化したのは編隊長の松下だ。

「机上案を何度か飛んで試した結果、速度二百五十ノット(時速約四百六十キロ)、二Gの荷重倍数で旋回して出来る、直径六千フィート(約千八百メートル)の輪が最適でした。高度は季節風を考慮しつつ一万フィート(約三千メートル)とし、東京都内の各所から見えるようにしました」(松下治英)

技術的なハードルは精確な五輪を描くための五機の位置どりだった。五機がそれぞれ一定の間隔で互いちがいのポジションを組むのだが、僚機との角度と距離感は何度も飛んで身につけるしかなかった。

練習は本番の一年半前から愛知県の伊良湖岬沖の空域で開始したが、何度やってもひしゃげたりしてうまくいかなかった。

本番二ヶ月前にJOC日本オリンピック委員会)と自衛隊の幹部を基地に招待して行った予行演習でも失敗となり、一同はいびつな五輪を見上げてため息をついた。彼らは本番まで一度も五輪マークに成功していない。開会式の世界生中継は五輪史上初である。彼らのフライトはぶっつけ本番の賭けだった。


ブルーインパルスが埼玉県の入間基地に移動したのは、開会式前日の午後。その後、新橋の第一ホテルに投宿した彼らは、かねてから会合の約束をしていた映像製作会社のスタッフと食事に出かけた。そのとき都心には大粒の雨が降っていた。

「普段でもショーの前日はビールをコップに何杯か“おしめり”程度です。ところがあの日は食事を始める頃にはもうじゃんじゃん降っていて、誰かが『明日は雨だから開会式はノーフライ』と言ってた。じゃあ飛ぶのは閉会式だなと」(淡野徹)

店をハシゴした一行約十人が、日付もかわった午前一時をとうに過ぎておでん屋を出たとき、まだ雨脚は激しかった。そして開会式の朝、窓から射しこむ陽光で目をさました松下は、仲間を電話で叩き起こした。

「おい大変だ、晴れてるぞ!」

車で基地に移動した彼らは、戦闘機の操縦席に収まりエンジンを始動し、酔いを醒まそうと、冷たい酸素を思いきり吸いこんだ。大らかな時代の話である。

東京五輪組織委員会が作成したスケジュールは細かい。

「昭和三九年十月十日、十五時十分二十秒ちょうどに五輪を描き始め、ロイヤルボックスの正面に全景が見えるようにする」

ブルーインパルスが五輪隊形を整えるには五分間の直線飛行を要する。観客席の向きと速度から換算して、国立競技場から南西に約三十八キロ離れた神奈川県湘南海岸沖の江ノ島が起点となった。

そのタイミングをはかるため、編隊は湘南近辺の空域に一周六分間の周回コースを設定した。予定通りのスケジュールなら、選手宣誓の開始と同時に江ノ島上空を通過すればいい。

天皇が座る貴賓席からの見上げ角を考慮すれば、赤坂見附交差点上空で五輪マークを描くのが最も見やすい位置だった。選手宣誓の開始が十五時五分、その五分後に鳩が放たれ、天皇が大空を仰いでいるそのときに五輪が描きだされるという、何とも緻密なスケジュール。

週刊ポスト2012年1月27日号

引用元: NEWSポストセブン|東京五輪開会式で空に描かれた五輪マーク 本番で初めて成功,
http://www.news-postseven.com/archives/20120116_80846.html