讓ることのできない傳統

忘れないようにメモ。

歴史的仮名遣い 読み方

松平永芳大人『讓ることのできない傳統の一脈――祖父春嶽の精神を受け繼ぐ者として』(日本青年協議會『祖國と青年』平成五年一月號/『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集?』同十五年三月・日本青年協議會刊に所收)に曰く、「

 戰前・戰中派の我々世代が世を去つたなら、靖國神社が衰微の一途をたどるとか、政治に左右されて變貌するといふやうなことがあつてはならない。將來を見据ゑ、私は宮司に就任してからは、爲すべきことは爲し、思ひ切つて切るべきことは切り捨てるやうに致しました。その際にあくまで守らなければならない傳統と、時世に應じて替へていいところと、その區別をよく見極めなければいけない。その判斷の基は、御祭神がお喜びになるかどうか、御遺族の御心に適ふか適はないかであると、いつも私は言つてゐました。‥‥

 時世に應じて替へるところは替へていく一方で、宮司になつた以上は、明治天皇さまの御創建以來の御精神を、命がけで守らうと決意しました。‥‥

 私は在任中に、境内には餘計なものは、絶對に造らないといふ方針をとりましたから、在任した十四年間に新たに出來たものと言へば、軍犬慰靈像と、拜殿の脇に造つた國旗掲揚臺だけです。國旗掲揚臺を造つたのは、祝祭日に限らず、國旗を掲げるためです。それは我々出征將兵は、みんな戰地で進軍する時、日の丸の旗を掲げたわけで、祝祭日の日の丸とは譯が違ふ。だから雨の日でも雪の日でも、神門を開くと同時に宿直が掲げて、神門が閉じられた時に降ろすやうにしました。‥‥

 私は生き殘り軍人で、同期生の半分は戰死してゐます。正規の軍人として生き殘つた以上、一切の位階・勳等などは頂かない、これが昭和二十年八月十五日以降の私の考へです。色氣でもあつて勳章でも頂きたいと思つたら、權力の壓力に抗することなんて、できなくなつてしまひます。

 靖國神社に參拜する時は、今日の日本の平和と繁榮に對して、御靈方のおかげでありがたうございます、といふ感謝の祈りと同時に、平和であるけれども、萬が一の時には、皆さんと同じやうに國に一命を捧げますといふ誓ひをするべきだ私は思つてゐます。宮司時代の祝詞も、神社外で行ふ祭典で奏する祭文も、すべてそのやうな氣持ちで奏しました。一例をあげますと、毎年、私が祭主となつてやつてゐる、橋本景岳先生の墓前祭(愚案、景岳會主催の景岳祭)での祭文は、かうです。「謹みて景岳橋本左内先生の靈に告げ奉る」で始まり、日本の情勢はかうだと述べて、「以て祖國の精神復興‥‥に寄與挺身せむことを誓ひ奉る」とし、最後は「冀はくは先生、我等が志を壯なりとし、嚴烈なる批判を下し、以て道義を重んずる傳統國家復活への活動を守護したまはらむことを」と、結ぶやうにしてゐます。單なる苦しい時の神頼みではいけない。結びは自分の誓ひを述べ、それを見守り守護したまはんことをと、終るべきなんです。だから靖國御社頭での祈りとは誓ひだ、御靈と同じやうに、いざといふ時は、國に命を投げ出します、といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御滿足は得られないと、私は思つてゐます。

 ところが、御遺族を票田にしてゐる政治家諸氏の參拜は、必ずしも純粹であるとは思へないのです。私が宮司に就任したときの總理は福田さんで、それから中曾根さんまでの總理は、春秋の例大祭に必ず來られてゐたんですが、總理を辭めたら來られない。一度總理をした方で、その後參拜に來た方は、殆んどをられません。そこがをかしい。總理を辭めても、國會議員ではあるんだから、「みんなで靖國神社に參拜する國會議員の會」の先頭に立つて來られゝばいいんですが、「俺はもう元老で、雜魚どもとは一緒には行かない」とばかりに、來なくなる。だから參拜は、心からのものではなく、自分の點數稼ぎのため、御遺族を票田にしてゐるだけなんだと言はれても致し方ないでせう。

 もつと無禮なのは、代議士方の大半が參集所まで來て、參拜しないことです。どこゞゝの遺族會は何時に昇殿參拜をすると、前からの申込みで分かつてゐますから、その豫定を聞きたゞし、地元の代議士がやつて來るんです。北門を通つて遊就舘の前に車を置いて、參集所に集まつてゐる御遺族の前で一席ぶつて、さあ參拜となると、忙しいからと、そのまゝ歸つてしまふ。御遺族の先頭に立つて昇殿參拜をするのが原則だけれども、ご多忙の先生方だから、これはまあ許せますが、せめて參集所を出た時に五十メートルほど歩いて、御社頭でおじぎぐらゐしてから、車に乘つて歸つて頂きたいのですが、そんなことをされる先生なんて、殆んどゐない。御遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました。

 さういふ政界の實態を見てきましたから、私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしないと決めてゐました。天皇さまに、公私はない。天皇陛下に、私的御參拜も公的御參拜もない、陛下は思召しで御參拜になられたんだと言へば、それで濟むんですが、總理も宮内廰長官も侍從長も、毅然とした態度で、天皇陛下に、公私はないんだといふ、それだけのことをキツパリと言ひ切るとは思へない。そこでモタヽヽして變なことを言はれたら、かへつて後々の害となる。變な例を作つてしまふと、先例重視の官僚によつて、御親拜ができなくなつてしまふ恐れがある。それで私が宮司の間は、絶對にお願ひしないことにしてきました。

 その代はり、春秋の例大祭には、キチンと勅使の御差遣を戴いてきてゐます。それに御直宮の高松宮三笠宮を始め、お若い皇族樣方に、極力御參拜に來ていたゞくやうお願ひしまして、よくお務めくださつてゐます。御參拜の時、皇族方はモーニング・ロングドレスで來られるんですが、高松宮殿下だけは、いつも背廣で來られてゐました。それは高松宮殿下には、一つの御意見がおありで、「靖國神社は、モーニングで威儀を正していかなければ行けない、堅苦しい神社ではなく、誰でも、たとへボロを纏つてゐても、本當に心のある人が來るべき神社なんだ。近くを通り掛かつて、今日はちよつと服裝があれだから遠慮するといふことではなくて、心があれば行くところなんだ」といふことなんです。御祭神への對し方は心で、といふことの御教示なんです。

 殿下方は御參拜いたゞく時、以前は御參拜の後、遠くの囘廊から遺族に向かつて、御手をお振りになるだけでした。それではと思つて、私が宮司になりましてからは、拜殿にできるだけ多くの御遺族に竝んでいたゞいて、御參拜のあと、拜殿までお下がりいたゞいて、遺族に聲をかけていたゞくといふことに致しました。さうしましたら、高松宮殿下と御一緒にお參りのことが多かつた三笠宮寛仁殿下が、「高松さんや三笠さんは軍人さんだつたから、いろんなことをおつしやれるだらうけれど、ぼくたちは戰後生まれだから、遺族とどんな話をしてよいのか分からない」とおつしやる。ですから「戰爭の話なんか、遺族になさる必要は少しもございません。どこから來たのかとか、おばあさんに幾つになつたのか、いつまでも元氣にしなさいとか、それだけおつしやればいいんです。戰爭を知らない世代だから、何をいつてよいか分からないと、難しくお考へになる必要はありません。遺族は、お若い殿下方がいらつしやつて、直接お言葉をかけられるのを喜ばれるんです」と申し上げたのを覺えてゐます。それで何度も御參拜に來られて、だんゞゝ馴れていらつしやつた。殿下は御專門が福祉で、老人や身障者のことについて馴れていらつしやるから、「遠くからよく來たね」、「靖國神社に、また來年も來ることができるやう、今から一所懸命歩かなきや駄目だよ」などとお聲をかけられて、高齢の御遺族と自然體でお接觸なされて、御遺族も殿下とお話しができたといふことで、それはもう喜んでをります。

 私が退任する直前、最後に宮司名前入りで論説を書くぞ、といつて、社報『靖國』平成四年二月一日號に、「謹愼謙虚」といふ題で、岩倉具視公のことを書いたんです。そこに明治神宮聖徳記念繪畫館にある『岩倉邸行幸』の繪を掲載しました。岩倉公が亡くなる少し前に、明治天皇が岩倉邸に見舞ひの行幸をなさつた。この繪の中で、もう自分では起き上がれず、令息夫人に背中を支へられて身を起こしてゐる岩倉公に對して、天皇さまは、軍服姿で直立不動の姿勢でをられる。これが王者の見舞ひです。王者には、王者の見舞ひの態度があるんです。こゝで天皇さまが腰を屈めたり、疊にひざをつけたりしてしまはれたら、王者としての繪にならない。社報にはそんな説明はしてゐないですが、さういふ意味をこめて、岩倉公のことを書きました。皇室のお立場では、開かれるべきといつても、限度があり、國民と同じ床でお振る舞ひをなされゝば良いといふものではないんです。

 先帝陛下は、人からどう思はれるかなど、全然意に介されませんでした。ネクタイが少々曲がつてゐようと、お帽子が歪んでゐようと、全然意に介されないで、一切、御私心といふものをお持ちにならず、常に大きな御慈悲を吐露されつゝ、國民は言ふに及ばず、他國の人々にも懇ろに接せられました。そのお姿に國民は、先帝陛下の一視同仁の片寄らざる御情愛を感じてきたわけです。

 戰後、神奈川縣を始めとして、全國御巡幸をなされた時のことです。ある工場をお視察の折、整列工員の先頭に居た工場長か組合長かが、突然、陛下の方に手を差し延べて、握手を求めました。囘りの人が一瞬息を呑んだその時、陛下は何の御躊躇もなく、「日本流でゆきませう」と仰せられ、帽子を差し掲げられ、堵列する工員たち一同に、御會釋を賜つたのです。一人に對する握手は、たとへその人が代表者であつたとしても、皆に通じることにはならないので、一樣に御會釋を賜る途をおとりになつたと拜察されます。それにしましても、突然のおもひがけぬ折、瞬時にしても、最も適切に對處されましたことは、先帝陛下が常日ごろから一視同仁といふことを、よくゝゝ御心掛けの結果であると思ひます。このことを私は、當日宮内大臣として御側に隨從してゐた亡父(松平慶民)から聞き知りまして、感銘のあまり、今も忘れられないでゐます。やはり皇室は、さうでなければいけないのです。

 平成の御大典の後、兩陛下は、日本大學に行幸啓になりました。如何なる特殊事情があつてのことか知りませんが、日本大學創立百周年記念式典とのことですが、今後百周年を迎へる大學は、日本大學だけではありません。もし他の大學が同じく百周年といふことで、行幸啓をお願ひしてきたら、どうなされるのか。日大においでになつてしまつたら、もう今度は、あそこには行かない、こゝには行くといはれるわけにはいかなくなる。同じ百周年でも、皇室に縁のある學校、例へば學習院なら、これは皇族方を御教育するために創つた學校ですから、行幸になつても、理路整然たる説明がつく。ところが今囘は、その時ちようどお暇だつたからいらつしやつたやうに受け止められかねない。そんな輕率なことで、天皇さまが動かれるやうになつてしまはれたら、それは必ず公平とか一視同仁といふ點で、問題になつてくるでせう。

 灣岸危機の時も、關係者が歸國すると、天皇さまは、「御苦勞だつた」とねぎらはれた。ところがペルシヤ灣で大變な苦勞をして、實に見事な成果をあげ、國際的にも大變評價された海上自衞隊の掃海部隊關係者には、何の御沙汰もありませんでした。灣岸派遣の論議は、政治家の間で論議した政治問題であつて、天皇さまとされては、國を護る一つの組織として、國會できちんと豫算をつけて認めてゐる自衞隊が、立派な成果を擧げてきたら、歴代天皇の一視同仁の御精神をもつて、「御苦勞だつた」とねぎらひの御言葉の傳達があつて然るべしと、私は思ひます。自衞隊員も日本國民、島原市民も日本國民、いづれに御聲をおかけになつても、それは政治に關與せられた事にはならないことです。今後、内閣・宮中側近の配慮すべき所でせう。

 今、宮中の側近は、侍從から宮内廳管理職まで、殆んど出向官僚でせう。二年ぐらゐで、どんゞゝ變はつていく。二年以上ゐると、出向先の同僚に遲れを取つてしまふから、二年以上はゐたくないと思つてゐるやうなのです。だから二年の間、事勿れ主義で御奉仕して、箔づけをして歸つて行く。

 ですから、戰後もつとも厭な時代に、宮内大臣を仰せつかつた私の父みたいに、殿下方に御進言申し上げるやうなことをしない。昔は、國民と同じやうに振る舞はれる皇族さま方を平民的であると申し上げ、今は民主的だといふことなのでせうが、昔は、あの皇族さんは平民的であると言つて、チヤホヤしてお氣にいりになつて、皇族を御利用しようとする人達が多かつた。それを私の父は、國民と同じやうに振る舞はれたいといふのは、御私心である。御私心があつてなされることは、どんなことをなされても、絶對に駄目ですと、御進言申し上げてをりました。ですから、みんな困つたことがあると、父に御進言していたゞけないかと頼みに來る。

 全員がさうである必要はないんですけれども、側近の何人かは、皇室と何百年も盛衰を共にした公家の末裔とか、舊華族とかである必要があると思ひます。たとへが惡くて恐縮ですが、皇室を卵にたとへると、卵の黄身が壞れずにきちんとしてゐるのは、白身があるからです。ところが終戰後、皇族とか舊華族を、みんな排除してしまつたでせう。だから白身が無くなつてしまつて、黄身と殻だけになつた。これでは、皇室の御本質・御生活を本當に理解し、御相談に乘つて差し上げ、時には御進言申し上げる人もゐないし、皇室は成り立たないやうに思ひます。何も華族制度を殘せといふことではなく、その制度の中で育つたやうな人で立派な人を、要所々々に存續させるべきでありました。

 先帝陛下の御大葬の日は、小雨が降りしきり、凍て付くやうな寒さでした。その雨の中を、警官はずつと立ち盡くして警備をし、國民も沿道でお見送りをしました。そこで陛下は、「この寒い中、國民はお見送りしてくれて有り難う。また警官その他の關係者は、長いこと御苦勞であつた」と、思召しをお傳へになりたい。よつて宮内廳長官は、總理にその思召しを傳へる。それを受けて總理は、テレビを通じて、すぐに宮中に參上して、かういふお言葉を賜つたと、國民竝びに警備に當たつた關係者に對して、思召しの程を傳へるべきなのですが、結果は官房長官の記者會見で、一寸この思召しのことに觸れたゞけで終つてしまつたのです。陛下の思召しが、官僚組織のために、スンナリと國民に傳はらないことは、宮内廳を全く一般官廳と同一に考へてゐる結果で、將來の一大檢討事項と思ひます。

 國民はみんな、皇室は長く續いてゐるから無くならないと思ひ込んでゐるけれど、安易にさう考へることはできないと思ひます。萬世一系の天皇と言ひますが、それは昔の日本だから言へたのです。戰前の日本と今の日本が、全く性格の違ふ日本になつてしまつたといふことをよく心得てゐないから、皇室も開かれてゐれば御安泰だ、靖國神社も國家護持がよいと言ひ出す。戰前なら國家護持でも危ないことはなかつたけれども、今の日本は、戰前と全く内容の違ふ日本だから、國家護持なんて危ない。何か法案を通す時、保守政權であつても、野黨の攻撃を受けて讓歩させられたりでもしたら、靖國神社の形態が完全に崩れてしまふ恐れがあるんです。それと同じやうに、萬世一系といふものも、今の日本では大變頼りないものになつてしまつてゐるんです。ですから、平成元年の秋、秋季例大祭・御創建百二十周年記念大祭・昭和大修築竣工奉祝大祭、この三つの大祭を無事終へた折、私は敢へて『今日この頃が、戰前戰後、世代交代の節目であり、果たしてこのやうな大きな神社が、正しく傳統を守りつゝ維持經營していけるかどうかが問題であり、祝典をめでたしゝゞゝゝと言つてをられず、今日が當神社苦難の門出である』と申し述べました。

 祖父松平春嶽は、勅許を經ないでアメリカとの修好通商條約に調印した時の大老井伊直弼に、切腹を覺悟して、單獨で談判したため、三十二萬石の藩主の座を外され失脚しましたが、己の信念を曲げませんでした。自分の一命を捨てゝも、國のためには權力に對して、言ふべきことは言ふといふ態度だつたと思ひます。この祖父の心を心として、私の父も公職を貫き通しました。その父を眺めて私は育ちましたので、祖父を歴史上の人物と言ふよりも、むしろ祖父春嶽に育てられたやうな感じです。それから子供の時から、日夜、勉強部屋で、祖父春嶽の油彩の遺影額を見て參りました。ですから、靖國神社の宮司といふ重責を拜命してをりました時も、その日々の御奉仕を、祖父の精神によつて、微力ながら果たしてゐる、といふ感じを持つて過ごして參りました。

 今後も祖父と父の精神を繼いでゐる者として、皇室を戴いた從來の國史を重んずる傳統國家復活のため、息の根が止まるまで、務めさせていたゞきたいと思つてをります」と。