英語

祝日って??を考えていて↓のことを思い出した。

小学校の英語 −『主語の発生』と『神の視点』−      

2007.8.5  

掲示板より


『雷が落ちて、ビックリした。』

こんな文は、どこにでもある表現だし、取り立てて問題にするほどの文ではない。

ところが私が知ってる小学校のある管理職の先生の中に、『この文はおかしい』と言って、一般の教師から上がってきた文章を次々に添削する管理職がいる。

その管理職先生は小学校英語に熱心な人で、もっといえば小学校での英語活動によって管理職に出世した人だが、この人は、
『「雷が落ちて、ビックリした」には、「主語」がない。主語がなければ誰がビックリしたのか分からない。』
というのである。
『ビックリしたのは「私」であるから、ちゃんと「私」を主語として入れなければならない』
というのである。

ビックリしたのが『私』であることは前後の文脈から見て誰にでも分かることである。

確かに英語流にいえば、主語は必要不可欠のもので、必ず文の中に入れなければならない。
しかしだからといって、それを日本語にまで強制するのはいかがなものだろうか。

かりに
『雷が落ちて、「私」はビックリした』と、
『私』を挿入したとして、それで一体何が変わるのだろうか。

『ああ、ビックリした』
普通われわれはそう表現する。

『ああ、「私」はビックリした』
そんな表現は逆におかしい。

しかしこの管理職先生は英語が使いたくてたまらないし、
日本語を英語流に表現したくてたまらないらしい。

しかもこの人は、自分がそうやって部下の文章を添削しているその発想が、英語流の発想だということを自覚していないから余計にタチが悪い。

源氏物語』の昔から、日本語には主語がない。
日本語は主語なしでも縦横無尽に、登場人物の行動や意識を表現してきた。

『ああよかった。』
『一等賞になったよ。』
『すごい人だな。』
『どこへ行くの。』『ちょっと、学校まで。』

すべて主語がない。
それでいて別に不自由はない。

イヤもっといえば、日本語の躍動感は主語なしの表現ができるから、みじかく端的に表現できるのである。

そんな日本語の躍動感を、不必要な主語を無駄に挿入することによって、どこかたるんだ締まりのない日本語につくりかえているのが、この管理職先生である。

この管理職先生の指導に従えば、国語の授業も次々に主語を挿入していかなければならない。
そうだとすればこのような国語の授業を受ける生徒は可哀想である。

小学校から英語を導入するということはそのような危険性を持つ。

国語の発想と英語の発想はその構造に置いて、こうも違うのである。




しかも主語なしで文を構成するのは日本語だけではない。
多くの言語で見られることである。
朝鮮語や中国語も、日本語と同じように主語がない。
ここで『主語がない』という意味は、『主語があっても良いが、なくても良い』という意味である。

その点英語は『必ず主語がなければならない』という点で特殊な言語である。
ドイツ語やフランス語に比べても、英語が主語を絶対条件とする度合いは飛び抜けている。
英語の属するインド・ヨーロッパ語族は、時代をさかのぼればのぼるほど、主語のない文は多くなる。
中世のラテン語や古代ギリシャ語になると、名詞や動詞の格変化によって、行為の主体が特定でき、主語は省かれることが多い。

そういう意味からすると、英語はインド・ヨーロッパ語族の中でも主流派ではない。
英語の主語に対するこだわり方はインド・ヨーロッパ語族の中でも飛び抜けている。

『日本語に主語はいらない』 金谷武洋著 講談社選書メチエ 参照
『英語にも主語はなかった』 金谷武洋著 講談社選書メチエ 参照



そのような主語に対する英語の異様なこだわりは、小学校からの国語教育にも悪影響を与えるのではないか。

主語へのこだわりが、過剰な『私』へのこだわりを生み、自意識過剰な『ジコチュウ』人間をますます多く生み出していくのではないか。

小学校英語教育は、このような誤った形で『個性化』教育とも結びついているのである。








『富士山が見える』、これを英語に訳すと、

『I see Mt.Fuji』、となる。

『富士山が見える』では、
あくまでも富士山が主役であって、それを見ている『私』は付け足しに過ぎない。

ところが英語で、
『I see Mt.Fuji』というと、
『I』つまり『私』が主役になって、『私』の見るという動作が、文の中心になる。


また、
『国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。』
川端康成の有名な『雪国』の冒頭であるが、これを英語にすると、

『The train came out of the long tunnel into the snow country.』
(汽車が、長いトンネルを出て、雪国の中に入って来た。)
となる。

『原作では汽車の中にあった視点が、英訳では汽車の外、それも上方へと移動している。』
金谷武洋氏は述べている。
(『英語にも主語はなかった』 金谷武洋著 講談社選書メチエ P29)

つまり、
原作では汽車の窓から外を見ている風景が、トンネルを出た瞬間に一面の『雪国』になるのに対し、
英訳では汽車がトンネルから出て『雪国』に入ってくる様子をまるで上空のヘリコプターからながめているような表現である。
氏の言う『神の視点』とはこの視点である。

さきほどの
『I see Mt.Fuji』にしても、
『行為者としての「私」を「神の視点」から、まるで第三者のように見下ろしているもう一人の話者がいるのである。』
(『英語にも主語はなかった』 金谷武洋著 講談社選書メチエ P58)


この『神の視点』とはキリスト教という一神教の視点と深い関係がある。
キリスト教は、天上にいる唯一絶対の神と、
一人一人の人間が一対一の関係で、
直接向き合うことによって成立する。

【参考】『主体(サブジェクト)の意味』
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_2120.html


この神の視点が強い『自我』の意識をもたらす。
『印欧語における「我」である「Ego,I,Ich,Je,Io,Ya」などはすべて同じ語源「ek」を共有している』。
この『ek』は『エゴイズム』の『Ego』の語源である。

『英語における「ek」は「ich」から「ic」をへて「i」となっり、さらに「I」と大文字で書かれて現在に至った。』
これが『Egoのサクセスストーリー』である。

金谷氏によれば、英語にももともと主語はなかったが、
それが現在のような主語を絶対不可欠とする特異な英語に変化するのは、
1066年の『ノルマンの征服』(ノルマン人によるイギリス征服)以降であるという。

イギリスの支配層としてフランス人のノルマンディー公が君臨することにより、
被支配者層の言語に落とされた英語は大きく変化を被ったというのである。

イギリスではこのあと、
支配者層はフランス語を話し、
被支配者層は英語を話すという状況が、
何百年も続くことになる。

『Egoのサクセスストーリー』。『それは支配者のフランス語と被支配者の英語が英国において300年間、激しく入り乱れた結果であった。主語はこうした乱世下に発生した。』

『Egoのサクセスストーリー』の300年間は、とはどういう時代か。
ヨーロッパでは『十字軍』の時期と重なる。
キリスト教の聖地エルサレムの回復を求めて、キリスト教の熱気がヨーロッパ中を席巻した時代である。
それと同時に野蛮な殺し合いの時代である。

このような時期に『Egoのサクセスストーリー』が行われ、『主語』が英語の中に必要不可欠のものとして定着していった。

このような『主語』の概念をもつ言語を、日本で小学生に教えることが、どう言った精神作用を与えるか。
そのことを文科省が十分吟味した形跡はない。



日本人と英語との関係は、フランス人と英語との関係とは根本的に違う。
まず言語のもつ『視点』とでもいうべきものが違っている。
『自他未分離』または『主客未分離』の状態をもって良しとする日本語と、
『自他を分離』し『主客を分離』することによってはじめて文を成立させる英語とは根本的に言語の発想が違っている。

人間の思考は言語の構造に影響される。
というよりも人間は言語によって考える。
人間の精神構造も言語の構造に左右される。
その言語の構造が日本語と英語では根本的に違うのである。

よく日本人が英語を学校では習っても実際にはしゃべれないことをもって日本の英語教育の失敗だと捉える向きがあるが、実際のところはそうではなく、そのことをもって日本語と英語がどれほどかけ離れた言語であるかに気づくべきなのである。
日本人と英語との関係は、フランス人と英語との関係とは根本的に違うと、さきほど述べたのはそのことである。






『ノルマンの征服』(ノルマン人によるイギリス征服)は、1066年である。

その10年後の1077年には、『カノッサの屈辱』が起こっている。
カノッサの屈辱』とはローマ教皇グレゴリウス7世によって、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門された事件である。
この事件によってローマ教皇の権威は向上する。

十字軍とは、その次のローマ教皇ウルバヌス2世によって、
その約20年後の1096年にはじめられたものであり、
1270年までの200年間もの間、繰り返し行われた。

このように、1100〜1200年代は、
キリスト教に対する宗教的情熱が高まった時期である。
特に1100年代の後半は、ローマ教皇インノケンティウス3世に代表されるローマ教皇権の絶頂期である。
イギリスでもリチャード3世(位1189〜99)は、神聖ローマ皇帝らとともに第3回十字軍に軍隊を派遣している。

このような出来事の基底には、キリスト教信仰共同体の成立ということがあった。



この間のヨーロッパ人の考え方の変化を、鯖田豊之氏は次のように語っている。
(世界の歴史9 ヨーロッパ中世 河出書房新社 P284〜288)

十字軍の時期は、
『キリスト教がヨーロッパの宗教として定着する過程でもあった。』

『キリスト教がヨーロッパの宗教になりだすと、異教徒相手の戦争は、防衛的であれ、攻撃的であれ、ひとしく神の意志にかなう「聖戦」であるとの主張があいついであらわれるようになった。』

この間、『完全にキリスト教化できるものは進んで同化吸収したかわりに、どうにもならないものは断固として拒否していった。』

『完全にキリスト教化できない土俗的要素を排除する精神と、異教徒の存在そのものを否定することになりかねない聖戦観念とでは、根は同じである。
内でも外でもあいまいな妥協を許さないのが、ヨーロッパのキリスト教だった。』

『まずやりだまにあがったのは、それこそキリスト教化の絶対に不可能なユダヤ人である。
彼らがヨーロッパ地域に居住したのはローマ時代からであるが、以後、若干の例を除けば、彼らの生活はだいたいにおいて平穏だった。
市民権こそなかったが、あちこちの都市にユダヤ人居住区をもち、商業、金融面での活動はめざましかった。
ところが、十字軍時代にはいると、彼らはにわかに白眼視されだした。
民衆十字軍などは、イェルサレムにおもむくまえの血祭りと称して、マインツ、シュパイエル、ウォルムスなどで、ユダヤ人の大虐殺と居住区の破壊を敢行した。』






このようなヨーロッパの精神の変化の中でそれと同時に起こっていったのが、
主語を絶対不可欠の要件とする近代英語の成立であり、
さらにそのなかでも『I』(私)という『Egoのサクセスストーリー』である。

このような歴史性を考えると、
現在の日本の教育に現れている現象と、非常に似かよったものを感じる。

『自分が一番正しい』
『自分に刃向かうものはすべて敵だ』
『弱い者はいじめよう』
『自己中心主義』
『強い者が正しい』
『非寛容性』
『すぐキレル』
『むかつく』
『他者の不在』

これらは一種の『自己の肥大化』として捉えることができるのではないかと思える。

『新学力観』として、
『ゆとり教育』などの『個性化教育』とともに『小学校英語教育』がでてきたのも、
その思想的バックボーンは共通している。

しかし、この『新学力観』のあとに、
『学級崩壊』『子供の孤立化』『いじめ』『学びの崩壊』などのさまざまな問題が表面化してきたことを、
今一度思い起こしてみるべきではなかろうか。

『自分が一番正しい』
『自分に刃向かうものはすべて敵だ』
『弱い者はいじめよう』
『自己中心主義』
『強い者が正しい』
『非寛容性』
『すぐキレル』
『むかつく』
『他者の不在』

これらは『新学力観』という誤った『個性重視教育』のあとに出てきたものである。



英語というのは『Egoのサクセスストーリー』によって確立された言語である。

この英語を母国語とする人たちはその後、どのような世界史をつくっていったか。

7つの海をまたにかけて、海賊行為を行い、奴隷を新大陸に売り飛ばし、世界中に植民地をつくった大英帝国。

そしてその植民地から革命を起こして独立し、今や世界帝国としてグローバリズムという非寛容な精神をまき散らしているアメリカ。

そのような国の言語を、まだ日本語も十分に読み書きできないうちから小学生に教えるということが、
いったいどのような意識の変化を引き起こすのか。
その目には見えないが、とてつもない大きな変化に対して、われわれ大人はもっと自覚的になるべきだと思う。

これは英語ができれば将来便利だといった程度の話ではないように思える。



【追記】
小学校の英語はもともと経済界からの要望であった。
経済からの要望に応えるのは簡単である。
今、小学校英語に使われている予算と、全国の小中高等学校に配置されているALTのために使われている予算とをすべて、
大学での英語教育のためにまわすことである。
莫大な予算である。
経済界が求めている外国人相手の仕事の交渉をするような人材は、大学卒以上の人が多いであろうから、大学での英語教育をもっと徹底することによって、経済界からの要望は十分に実現できるのである。

ソース: 教育の崩壊
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_3176.html