憲法記念日


マ元帥声明 (昭二一、三、七 読売)
予は予が全面的に承認する新しい進歩せる憲法を日本国民に提示せんとする天皇ならびに日本政府の決定について、本日発表し得る事に深く満足してゐるものである。この憲法五ヶ月前予が最初に日本政府に指令して以来日本政府と聯合軍最高司令部の関係者の間における苦心にみちた研究と幾囘となき会談ののちに起草されたものである。憲法はその条章において日本の最高法たることを宣言し、主権を率直に人民の手に置いてゐる。また本憲法は人民の代表機関たる選挙された立法機関に優先権を与へ、かつこの立法機関の権力ならびに行政機関および司法機関の権力を適当に抑制し、もつていかなる政府機関も国務の運営にあたり専制的ないし専横的にならないやうに保証を与へる統治権力を設定してゐる。
さらに本憲法皇位を残存せしめてゐるが、これは統治権力ないし国有財産を所有せず、人民の意思に従ひ、人民統合の象徴たるべきものである。
憲法は進歩せる思想の最も厳正な水準を満すごとき人間の基本的自由を人民に与へかつ保証するものである。本憲法はまた、つねに封建主義の鉄鎖を断ち切りその代りに人権を保護し、人間の尊厳をたかめしめる。さらにこれは人間関係のもつとも進歩した観念に完全に対応したもので一種の折衷的憲法であり、実質的には知的で正直な人間が称へる数個の異つた政治哲学の混合である。
条項の最初に述べられてゐるものは国家の主権の発動としての戦争を除去し他国との紛争解決の手段としての暴力による脅威またはその使用を永久に廃棄し、更に将来陸、海、空軍またはその他の戦争能力を承認することあるひは国家がいかなる交戦権をもつことも禁止してゐる。かかる計画と公約によつて日本はその主権に特有な諸権利を放棄しその将来の安全と生存を世界の平和愛好民族の誠意と正義にゆだねることになつた。
実にこれによつて国民は戦争が国際的紛争の調停者としては無効であることを認識し、正義と寛容と人類相互の理解とに対する信仰への方向を示す新らしい途をゑがきうるのである。かくして日本人民は断乎として過去の神秘性と非現実性に背を向け、これに代つて新らしい信仰と新らしい希望をもつて現実的未来を迎へることとなるのである。

"It is with a sense of deep satisfaction that I am today able to announce a decision of the Emperor and Government of Japan to submit to the Japanese people a new and enlightened constitution which has my full approval. This instrument has been drafted after painstaking investigation and frequent conference between members of the Japanese Government and this headquarters following my initial direction to the cabinet five months ago.

Sovereignty With People

"Declared by its terms to be the supreme law for Japan, it places sovereignty squarely in the hands of the people. It establishes governmental authority with the predominant power vested in an elected legislature, as representative of the people, but with adequate check upon that power, as well as upon the power of the Executive and the Judiciary, to insure that no branch of government may become autocratic or arbitrary in the administration of affairs of state. It leaves the throne without governmental authority or state property, subject to the people's will, a symbol of the people's unity. It provides for and guarantees to the people fundamental human liberties which satisfy the most exacting standards of enlightened thought. It severs for all time the shackles of feudalism and in its place raises the dignity of man under protection of the people's sovereignty. It is throughout responsive to the most advanced concept of human relations - is an electric instrument, realistically blending the several divergent political philosophies which intellectually honest men advocate.
"Foremost of its provisions is that which, abolishing war as a sovereign right of the nation forever renounces the threat or use of force as a means for settling disputes with any other nation and forbids in future the authorization of any army, navy, air force or other war potential or assumption of rights of belligerency by the state. By this undertaking and commitment Japan surrenders rights inherent in her own sovereignty and renders her future security and very survival subject to the good faith and justice of the peace loving peoples of the world. By this does a nation, recognizing the futility of war as an arbiter of international issues, chart a new course oriented to faith in the justice, tolerance and understanding of mankind.
"The Japanese people thus turn their backs firmly upon the mysticism and unreality of the past and face instead a future of realism with a new faith and new hope."
Copyright©2003-2004 National Diet Library All Rights Reserved.

引用元: 和文マ元帥聲明 英文:[タイトルなし](テキスト) | 日本国憲法の誕生,
"http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/094/094tx.html"

日本国憲法の制定過程で、政府当初案の全容を特報し、連合国軍総司令部GHQ)の全面干渉を招くきっかけとなった毎日新聞の「憲法草案スクープ」は西山柳造氏(元毎日新聞政治部記者)である。
憲法草案をスクープした1946(昭和21)年2月1日付『毎日新聞』




憲 法 講 話
 
               美濃部達吉
 
第一講 国家及政体
 
 今日から約十回に亘つて、帝国憲法の大要に付いて、お話を致すこととなりましたのは、私の甚だ光栄とする所であります。憲法といふのは、一口に申せば政体の法則と云つても宜い位で、其の規定の最も重なるものは国の政体に関する事柄でありますから、憲法のお話をするには、先づ政体とは何であるかといふことを、明白にすることが必要であるし、而して政体の事を論ずるには、先づ国家といふ観念を明にしなければならぬ。それで今日は、先づ此の二の問題、即ち国家及び政体の事に付いて、説明しようと思ひます。

一 国家の性質
 
 国家は団体なり
 第一に述ぶべきことは、国家は一の団体であるといふことであります。団体といふ語は極めて普通に用ゐらるヽ語で、別に其の意味を述べる必要も無いやうでありますが、国家の性質を明瞭ならしむるに就ては、先づ団体の性質をも明瞭にして置くことが必要であります。
 団体の意義
 団体とは、簡単に言へば、共同の目的を似てする多数人の結合なりといふことが出来ます。単に多数人の集りが常に団体であるといふのではなく、或る共同の目的があつて多数の人が一致協力して某の合同的のカに依つて其の目的を達しようとする場合にのみ、之を団体といふことが出来るのであります。仮令多数人が同じ目的を以て相集つて居る場合であつても、其の多数人が一致協力して其の目的を達しようといふのではなく、各人が各自分の目的を達しようとするのであるならば、それは唯偶甲の目的が乙の目的と同じであるといふばかりで、甲と乙とは各自独立の目的を有つて居るのであつて、決して共同の目的を以で結合して居るものといふことは出来ませぬ。例へば同じ汽車に乗合つて居も乗客とか、同じ芝居を見に来て居る観客とかいふやうなものは、何れも団体ではない。団体には常に或る共同目的が必要で、共同目的といふのは常に多数人の協力といふことを其の前提として居るものであります。人間は其の一個人としての力は甚だ薄弱なもので、其の生命にも限のある事であるから、若し一個人だけで仕事をするとなれば、其の為し遂げ得べき範囲は極めて僅で、人生の目的は到底之を達することか出来ないと言はねばならぬ。多数の人が協力一致して事を行ひ、又は一人が死んでから後にも他の人が其の意思を継いで同じ目的を達するといふやうに、団体的活動を為すことに依りて、始めて人生の目的の多くを達することが出来るのであります。
 団体にはいろいろの種類があります。或は極めて一時的なものもあれば或は数千年の長きに亘つて存続し将来尚永遠に継続すべき永久的のものもある。或は其の目的の唯極めて狭い範囲にのみ限られて居るものもあり、或は人世の目的の大部分に亘る極めで広い目的を有つて居るものもある。或は僅か二三人だけで出来て居るものもあれば、或は何億万といふ多数人の結
合であるものもある。或は其の結合の極めで薄弱なものもあれば或は鞏固なものもある。此の頃の流行の観光団といふやうな共同旅行といふだけの目的を以て結合して居るのも団体であれば、何々研究会といふやうな学術の共同研究だけを目的として居るのも団体である。会社、組合、政党、家族、市町村、国家等何れも皆団体の一種たるものであります。
 団体は目的を有す
 団体には斯くいろいろな種類があるが其の如何なる種類たるかを問はす総ての団体には必ず或る共同の目的が有る。其の共同目的は固より団体に属して居も各個人の目的ではあるけれども、各個人が各自独立に其の目的を達しようとするのではなく、団体共同の力に依つて之を達しようとするのであるから、吾々の普通思想に於ては団体そのものを恰も生存力を有つて居る活物の如く看做し、団体そのものが或る目的を有つて居るものとして考へるのであります。例へば或る事業の為に会社を設立するとすれば、其の事業は会社自身の目的であると看做されるし、或る政党が作られるとすれば、其の政党が或る一定の目的を以て活動して居るものと看做されるのである。
 団体は活動力を有す
其の結果として又其の共同目的を達するが為にする活動は凡て団体自身の活動と看做される。其の活動は固より各個人が之を為すのであるけれでも、各個人が自己の独立の目的の為に之を為すのではなく、団体の共同目的の為に之を為すのであるから、吾々の普通思想に於で其の活動自身が団体に属し団体が自ら活動するものと看做すのであります。即ち会社が営利事業を営んで居るといひ.政党が政綱を発表するといふやうに、団体其れ自身に活動力があり、意思を有つて居るものと看做すのであります。
 団体は機関を有す
 総ての団体は此の如く共同の目的を有し随て又活動力を有つて居るものでありますが、併ながら実際に其の活動を為す者は固より各個人でなければならぬ。団体に属して居る各個人が団体の共同目的の為に働き、其の活動が団体自身の活動と看做さるヽのであつて、此の如く団体の為に働く所の人を団体の機関と申しよす。凡て団体は多数人の合同一致の力に依つて共同の
目的を達せんとするの結合でありますから、其の団体に属しで居る各個人は何れも団体の為に働き、以て団体の目的を達すべきもので、即ち団体に属する各人は皆団体の機関たる地位を有つて居るのであります。併ながら団体が多人数から成り立つて居る場合には、其の多数の人が何れも平等に団体の為に働くといふことは、実際に行ふべからざる所でありますから、多くの場合には其の中から特に役員を選んで、其の役員が殊に多く団体の為に働くといふのが通常であります。斯ういふ場合には或は其の役員だけを特に団体の機関といふこともありますが、正確に申せば役員以外の団体員も亦或る範囲に於て皆団体の機関たるものであります。
 此の如き機関は総ての団体が必ず皆之を備へて居るべきもので、苟くも団体たる以上は如何に薄弱な如何に小さな団体と雖も、必ず機関の無いものは無い。恰も人間にも頭脳を初として、呼吸機、消化機、血行機、手足、耳口などいふやうな各種の機関が有つて、各、一定の職分を有つて居り、人間の活動は凡て此等の機関に依つて行はるヽのと同じやうに、総ての団体にも又必ず団体の機関が有つて、其等の機関が各、一定の職分を有つて団体の為に活動し、其の活動が団体の活動となるのであります。
 以上は総ての団体に共通の性質を述べたので、即ち団体には必ず一定の目的があり其の目的を達すらが為めの活動力即ち意思力があり、其の活動を為す所の機関がある。国家も亦此の如き団体の一種類であるから随て又凡て此等の性質を備へたものでなければならぬことは勿論であります。
 国家は有機体なりといふの意義
 国家の此の如き性質を言ひ表はす為に又国家は一の有機体であると申すことがあります。国家が有機体であるといふのは畢意国家が団体であるといふのと同じ意味に帰するので、即ち国家が恰も人間其の他の有機体の如く生活力を有して絶えず生長発達し、或は元気の盛なこともあれば、或は老衰することもあり各種の機関を備へて其の機関に依つて活動するものであるこ
とを言ひ表はすものに外ならぬのであります。
 国家は永久的の団体なり
 国家は団体の一種類であつて、然かも団体の中でも、其の目的の最も広い其の結合の最も永久的のものであります。国家の目的が何であるかは固より一言にして之を尽くすことは山来ませぬが、要するに、其の目的は決して或る特定の事業にのみ限られたものでなく、広く人類の生活を幸福ならしめんことを目的として居るものと言つて可いのであります。其の結合は又決して一時的のものでほなく、永遠に亘るの結合であつて、其の結合に加はつて居る各人は絶えず新陳代謝して、今日生きて居る人は百年も経つ中には一人も生き残る者は無く、全く新しい人と代はるのでありますけれでも、国家は尚常に同一の国家として永続するのであります。
 国家が一の団体であることは右述ぶる通であるが、是だけでは未だ国家の性質を明にしたものと言ふことは出来ぬ。国家の性質を明にするには、尚国家が他の総ての団体と区別せらるべき特色を明にせねはならぬ。国家が他の団体と区別せらるべき特色はこの点を挙ぐることが出来ます、一は国家が領土団体であることで、一は国家が最高の権力を有する団体であることであります。
 国家は領土団体なり
 国家が領土団体であることは国家の第一の特色であります。領土団体といふのは一定の土地を基礎として成立して居る団体といふことである。国家は必ず一定の土地を占領して之を自分の領土として居り、国家を組織して居も人々即ち国民は、此の領土の上に定住して国家といふ団体を成して居ものである。斯ういふ一定の領土がなければ、如何に多数の人が結合して居つ
ても国家の性質を有つて居るものといふことは出来ぬ。人間に例へて言ふならば丁度体躯のやうなもので、恰も人間は体躯が必要である通りに国家にも亦領士が必要なのであります。
 国家が領土団体であることは国家の一の特色であるけれども、領土団体は必ずしも国家ばかりではなく、府、県、市町村といふやうな、所謂地方団体も亦領土団体の一種で等しくー定の地域を占め其の地域を基礎として成立して居るものである。国家と此等の地方団体との区別を明にするには、尚国家の第二の特色を知らねばならぬ。
 国家は最高権力を有する団体なり
 国家の第二の特色は国家が最高の権力を有する団体であることに在る。
是が国家の最も著しい特色で国家をして他の総ての団体と区別せしむる所以であります。前に述べた通り、総ての団体は皆活動力即ち意思力を有つて居るのであるが、国家以外の団体は皆自分の勝手に如何なる活動をも為し得べき力を有つて居るるのではなく、常に他の権力の下に服し殊に国家の権力に依つて制限せられて居るものであります。如何なる団体と雖も国家の
命令に服せず独立自由の行動を為し得べき力を有するものは無い。独り国家のみは如何なる権力の下にも服することなく、自分で自ら制限を加ふる外には何者の命令をも受けず、何者に依つても干渉せらるヽことは無いのであります。固より国家と雖も全く無制限に何んな事でも勝手に為すことが出来るといふのではなく、国家は一面には国内法に依つて其の行動を制限せら
れて居り、一面には国際法に依つて其の行動を制限せられて居るものであります。国家と雖も法律に違うた行動を為すことは出来ないもので、法律に定まつて居る以外に勝手に入民を刑罰に処したり、人民から租税を取り立てたりするといふやうなことは、勿論為すことを得ないのであります。国家は又国際法にも違反することの出来ないるので、其の外国に対する行動は常に国際法の範囲に於てのみ為すことを得べきものである。国家の活動力には此の如き制限が有りますけれども、乍併、此等の制限は何れる国家以外の他の権力から加へられた制限ではなく、国家自身が自ら加へた制限であります。即ち国内法は国家が自分で制定し改廃することの出来るものであるから、国家が国内法の規定に従ふのは、他から制限を加へらるヽのではなく、自ら自分の加へた制限に服するものであることは言ふ迄も無いことであります。国際法は国家が自分だけで勝手に制定し改廃し得もるのではないが、国際法も矢張り国際団体内の総ての国家が一致承認して始めて成立するもので、亦国家の意思に反して外から加へられた制限といふものではない、国家が自ら之に同意し自ら之を承認して始めて国際法が成立するのであつて、国家が国際法に従ふのは矢張り国家が自ら其の同意し承認した所に従ふのに外ならぬのであります。国家は此の如く自分の意思に基いて自ら制限を加へる外には、他の者の意思に依つて制限を受くることの無いもので、此の如き性質を言ひ表はす為に、国家は最高の権力を有すといふのであります。権力といふのは活動力、意思力、といふのと同じ意味で、即ち最高の権力を有すといふのは最高の意思力を有すといふことに外ならぬのであります。最高の意思力といふのは自己の意思に反して他の者に依つて自己の活動を制限せられないことを言ひ表はす語で、語を換へて言へば、国家の意思力は国家が自ら制限する外には他の者の意思に依つて制限せられ拘束せらるヽことの無いことを謂ふのであります。
 最高権力を有せざるものは国家に非ず
 国家が他の領土団体即ち地方団体の類と区別せらるヽ所以は専ら此の最高の権力を有するの点に在る。他の領土団体は何れも国家の権力の下に服し国家に依つて制限せられて居るもので、何れも最高権を有するものではなく、独り国家のみが此の性質を備へて居るのであります。市町村だの府県だのに付いては其の最高権を有するもので無いことは言ふ迄も無いが、其の他の領土団体に付いても何れも同様であります。例へば英国の殖民地の中でも、オーストラリア連邦とか、カナダとか、南アフリカ連邦とかいふやうな所謂自治殖民地は、殆ど独立の国家と大差の無い組織を為して居つて、憲法を有し、国会を有し、内閣も有れば独立の裁判所も有るといふ有様でありますけれども、矢張り英国の権力の下に服して居るもあであつて、最高の権力を有する者ではなく、随て国家たる性質を有するものではない。インドの如きも名義上はインド帝国と称し、英国の国王は其の公の称号としては、グレートブリテン及アイルランド合衆王国国王並インド皇帝云々く称せらるヽのでありますけれどもインドは矢張り英国の権力の下に服して居るもので、等しく英国の一殖民地たるものに過ぎぬ、決して一国家たる性質を有するものではないのであります。
 連邦各国の性質
 唯多少の疑の有るのはドイツ帝国、米合衆国及スイス連邦の如き、所謂連邦を組織して居る各国であります。此等は、何人も知つて居る通り、沢山の国が集まつて一の国家を組織して居るので、ドイツ帝国はプロシアを初め二十五箇国より成り立つて居り、合衆国は四十有余の諸国から作られて居り、スイスも亦同様に多くの[カントン]から組織せられて居るのである。此等の連邦を組織して居る各国は普通には矢張り国家の性質を備へて居るものとせられて居りますけれども、其の実は此等の各国は何れも帝国、合衆国等の中央権カの下に隷属して、之に依つて制限せられて居るもので、最高権を有するものではないのであります。随て若し前に述べた通り最高権を有することが国家の要素であるとするならば、此等の国は真の国家では無いと言はねはならぬ結果となるのであります。国家たる性質を有つて居るのは唯ドイツ帝国、米合衆国其れ自身で、之を組織して居る所の諸国は其の下に属して居る一種の領土団体たるに過ぎぬもので、独立の国家たる性質を有するものではないといふことになるのであります。斯ういふ考が果して正しいか何うかは、ドイツに於て殊に激しい議論の有る問題で、ドイツでは多数の学者は、ドイツ帝国も一の国家であり、之を組織して居るプロシア其の他の連邦各国も、亦各、一の国家であると、主張して居りまして、其の結果は、国家の権力は必ずしも常に最高であるとは限らない
ものであるといふやうな主張を為して居る人が多いのであります。此の問題を詳論しますのは、除りに専門的に渉りますから、茲には略しますが、私は歴史的の因襲を離れて、単に理論から申すならば、寧ろ連邦各国は真に国家たる性質を有するものではないといふ方が正しいのではないがと考へて居ります。ドイツの学者が、連邦各国も亦各、一の国家であるとして居るのは、唯此等の国が歴史上嘗て独立の国家であつたといふ、歴史的の事実に制せられて居るのではないかと思ふのであります。其れは何れにしても、日本の国家の説明としては、国家は最高の権力を有する団体であるといふことが、正しい説であることは更に争を容れない所であります。
 国家の定義
 国家の性質は略以上述べた通で、約言すれば、国家は最高の権力を有する領土団体なりと言ふことが出来ます。精しく曰へば『国家は一定の土地を基礎とする団体にして自己の意思に基き自ら制限を加ふるの外他の者に依りて其の意思を制限せられざるの力を有するものなり』と、定義することが出来るのであります。
 国家の権力無制限にあらず
 国家が最高の権力を有すといふことは決して絶対無制限の権力を有すといふの意味ではない。普通に能く国家が絶対無限の権力を有つて居るといふことを言ふのは甚だ間違で、前にも言ふ通り国家は一面には国際法の制限を受け一面には国内法の制限を受けて居るものであります。国家は唯此の制限内に於でのみ活動することが出来るのでありますが、唯此の制限は国家
自身の意思に反して生ずるものではなく、国家が自ら加へる所の制限でありますから、国家が最高の権力を有すといふのであります。
 国家は法人なり
 法律上から見て、国家は一の法人であると申しよす。法人とは法律上の人といふことで、即ち法律上人と同一視せらるヽことを言ひ表はすのであります。前にも述べた通り、凡で団体は其れ自身に生存目的を有し活動力を有つて居るもので、此等の点に於て団体は恰も人間と同様の性質を有つて居るものであるから、法律上の見地に於ても団体其れ自身が恰も一個の人であるが如くに看做し、之を法人といふのであります。尤も総ての団体が皆当然に法人と看做さるるといふのではなく、団体の内でも、其の結合が特に強固で、多少継続的の性質を有し、其の他人に及ぼす利害関係の広いものだけが、特に法人として保護せらるるのであります。国家は総ての団体の中でも最も永続的な、其の関係の及ぼす所の最も広いものでありますから、勿論一の法人たる地位を有つて居るのであります。
 法律上に於で人といふのは、権利能力の主体といふことであります。即ち法律上に人の人たる所以、人が他の総ての者と区別せらるヽ所以は、其の権利能力を有することに在るのであります。権利能力といふのは、畢竟、自己の生存目的の為めにする活動力、又は自己の利益を達するが為めの意思力といふことで、即ち法律上に於で権利能力の主体といふのは、利益の主体たり、意思カの主体たることが、法律上に認められて居る者を謂ふのであります。団体が法人であるといふのは、即ち国体が自己の利益を有し、自己の意思力を有することを法律上に認められて居ることを謂ふので約言すれば、団体が法律上の権利能力を有すといふことに帰するのであります。
 国家が一の法人であるといふのも、亦之と同様に、国家が権利能力を有することを意味するので、国家は恰も其れ自身に一の人であるかの如くに、権利能力を有し其の権利能力に基いて種々の権利を享有するのであります。
 国家の権利の二大種類
 国家の享有する権利は、其の種類にいろいろありますが、大別すると二種類に分けることが出来ます。第一種は、国家のみならず、他の総ての法人でも又は一個人でも享有することの出来るもので、是は主として財産権であります。 総ての法人又は一個人は、何れも財産を所有し之を処分することが出来ると同様に、国家も亦財産権の主体たることが出来ることは勿論であります。第二種は、国家に特有なる権利でありまして、即ち国内の総ての人民に対して命令強制を為し得るの権利であります。是は国家のみが享有して居る権利で、他の法人又は一個人は、特に国家から附与せられた場合の外は、之を享有することの出来ぬものであります。地方自治団体であるとか、自沿殖民地とかいふものは、何れも国家から此の権利を附与せられて居るものであります。此の国家の権利を称して、統治権といふのであります。
 要するに、国家の権利は、総ての人の一般に享有することの出来る財産権と、国家にのみ特有なる統治権と、此の二種類に分けることが出来るのでありまして、前者は之を国家の私権と謂ひ、後者は之を国家の公権と謂ふことが出来ます。
 国家の統治権
 国家の統治権は、国家の最も大切なる権利で、之に依つて始めて国家が国家としての生存を全うすることが出来るのであります。統治権とは、一口に申せば命令強制の権利といふことが出来ますが、今少しく精密に申すならば、国家は其の統治権に基いて、第一には、一定の人民を自国の臣民と定め、其の臣民たる者を独占的に支配し、之に対して命令を為し其の命令を強制し、其の権利関係を定むることが出来ます、此の権利は通常之を臣民高権と申します。約言すれば臣民たるべき資格要件を定め及び其の臣民を支配するの権利であります。第二には、一定の土地を自国の領土と定め、其の領土内に在る者は、自国の臣民であると、又は外国人であるとを問はず、凡て之を独占的に支配することが出来ます。此の権利を称して、領土高権と謂ひ.又は単に領土権と申します。約言すれば、自国の領土を定め及び領土内に於ける総ての者を支配するの権利であります。凡で新領土を取得するのは、領土権の拡張であります。
最後に第三には、国家は其の統治権に基いて、自由に自国の政体を定め、其の組織を定むることが出来ます。此の権利を称して組織高権と謂ふことが出来ます。臣民高権、領土高権、及び組織高権、此の三つを合せたものが、即ち国家の統治権であります。
 主権の第一の意義
 統治権の事を述ぶる序に、主権といふ語に付で一言して置きます。主権といふ語は、従来色々の意味に用ゐられて居りまして、往々混同を生ずるの処があります。主権といふ語は、本来英語の「ソヴェレヌチー」といふ語を訳したので、 「ソヴェレヌチー」といふのは、本来は「スプリ−ムネッス」、即ち『最高』とか『至上』とかいふ意味であります。前に述べた通り、国家は最高の権力を有つて居るもので、即ち自分以上に自分を支配する権力の無いものでありますから、此の性質を現はすが為に、国家の権力は「ソヴェレン」である「スプリーム」である、最高であるといふのであります。即ち主権といふことは、最高権といふことの意味で、詳しく言へば、自己の意思に反して他より制限を受けざる力といふことであります。
 主権の第二の意義
然るに主権といふ語は、又一転して、統治権といふ語と同じ意味に用ゐらるヽ ことが、普通でありまして、通俗には統治権といふよりも、主権といふ方が広く行はれで居るやうであります。併ながら最高権といふことと、統治権といふこととはまるで違つた意味で、之を混同せぬやうに注意することが甚だ必要であります。統治権といふのは人に命令し強制するの権利であり、最高権といふのは、他から命令せられない力をいふのであります。主権といふ語が、常に統治権と同じ意味に用ゐらるることは、現時の一般の慣例でありますから、強ひて之を排斥するにも及ばぬことでありますが、唯此の意味に於ての主権即ち統治権は、本来の意味に於ての主権即ち最高権といふこととは、違つた意味であることを、忘れてはならぬのであります。
 主権の第三の意義
 主権といふ語は、更に又第三の違つた意味に用ゐらるることが、是も極めて普通であります。それは、国家内に於て最高の地位に在る機関の事を言ひ現はす為に用ゐらるる場合で、或は君主は主権者であると言つたり、或は主権は国民に属すと言つたりするやうなのを謂ふのであります。是も極めて普通に用ゐられて居る用例で、西洋の諸国の憲法には、憲法の明文の中に、主権は国民に属すとか、君主に属すとかいふことを規定して居るものも少なくないし、普通の日本語としても、君主が主権者であるといふことは、常に用ゐられて居る語であります。併ながら、此の意味に於ける主権は、前に述べた第一の意味又は第二の意味の主権とは、全く異つた意義に用ゐられて居るもので、此の場合の主権といふのは、唯国家内に於ける最高機関の地位を言ふのであります。
前に述べた第一の意義の主権は国家の権力其れ自身が最高であることを言ひ表はすのであるが、此の第三の意味に於ての主権は、国家内に於て何人が最高の地位に在るかを言ひ表はすもので、主権が国民に属すといふのは、国民が国家の最高機関であることを言ふのであり、君主が主権者であるといふのは、君主が国家内に放て最高の地位に在ることを言ふのであります。此の意味に於ての主権は、又第二の意味の主権即ち統治権といふ意味とも、全く違つたもので君主が主権者であるといふのは、決して君主が統治権の主体であるといふ意味ではない。統治権は国家の権利であつて、君主の権利でもなく国民の権利でもない、統治権は国家といふ全団体の共同目的を達するが為めに存する所の権利で、其の団体自身が統治権の主体と認むべきことは、当然であります。君主が主権者であるといふのは、唯君主が国家の最高機関であつて、国家内に於て最高の地位を有する者であることを意味するものと解すべきであります。主権者といふ語は、極めて普通な語でありますから、其の語を使用するのは、敢で差支は無いが、唯其の意味を正解することが必要で、決して統治権の主体といふ意味に解してはならぬのであります。
 国家の性質に付いての説明は、是位にして置いて、次に政体といふことに付で、説明いたします。

引用元: 『憲法講話』 美濃部達吉著,
"http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/shiryou1/kenpoukouwa2.html"