建国記念日では?

建国記念の日となった経緯がわかった。

頂門の一針 1448号  09・02・11(建国記念の日)より


建国記念「の」日の「の」

         渡部 亮次郎

建国記念「の」日がやってくる。この「の」こそが復活のキーワードであり、園田直(衆院副議長、外相、厚相、官房長官、故人)と私を結びつけた「の」である。

この日はかつて紀元節という祝日であったが、戦後になって紀元節の祝日化は廃止された。1951(昭和26)年頃から自由民主党タカ派を中心に復活の動きが見られるようになった。

やがて1957(昭和32)年2月13日、自民党の纐纈弥三(こうけつ やぞう)衆院議員らによる議員立法として国会に登場した。廃止以前のように「2月11日」を紀元節は無理としても「建国記念日」として復活させようというものであった。

ところが当時の野党第1党たる日本社会党はまず復活は保守反動の最たるものとして大反対。しかも、この「2月11日」という日付は「神武天皇元年(紀元前660年)1月1日」を、当時の歴史家が誤ってグレゴリウス暦で算出してしまったために弾き出された日付である。

だが「1582年10月4日以前はユリウス暦で算出する」という正しい方法で計算した場合、神武天皇元年1月1日は「2月18日」となる。つまり、正しい計算による建国記念の日は「2月18日」ということになる。このため皇族にも2月11日に反対する人がいた。

当然ながら以降9回の議案提出・廃案を繰り返した。もし自民党がシビレを切らして本会議で成立を図れば血の雨が降るだろうといわれていた。

折しも血の雨は日米安保条約改訂をめぐって1960(昭和35)年、降ったばかりであった。なんとなく紀元節復活くわばらくわばらというムードが漂っていた。

昭和40(1965)年11―12月、国会は韓国との関係正常化の是非をめぐって自民対社会党が激突。混乱の責任を取って衆院では船田中議長、田中伊三次副議長が辞任、後任の議長に山口喜久一郎(やまぐち きくいちろう) 氏、副議長に入閣未経験ながら当選8回の園田直(そのだ すなお)氏が

選出された。

2人とも佐藤栄作首相のライバルながら数ヶ月前に急死した河野一郎派の所属。党内は不思議がったものだ。園田氏は当選8回なのに未入閣。国対族としてここで一旗上げようと張り切っていた。

翌1966年の正月、正副議長は伊勢神宮に参拝。衆院記者クラブに異動していた私(NHK)も同行、記者会見その他をこなした。

私は山口さんはともかく園田さんにはいい感情を持ってなかった。なぜならば、先立って河野派担当当時の総裁争いの時、朝駆けしても夜回りしても決まって留守で1度たりとも取材に応じて貰えなかったからである。

のちに外相になったときに秘書官として就いて分かったことだが、総裁選挙での多忙を理由に外泊を続けていたのである。3人目の夫人と「白亜の恋」で結ばれて勇名を馳せた人ではあったが、既に当時は○○○誑しとして有名だったから、得たりや応というわけだったのだろう。

伊勢参りから帰って間もないある日、数人の記者と懇談していて園田副議長がふと「菅原通済さんに勲1等を摂ってやる上手い手はないものだろうか」と言った。

戦前からの財界人であり、「売春・麻薬・性病」の三悪追放キャンペーンを主唱。売春防止法制定に力を尽くした人として有名であったが品性の点で大宅壮一(評論家)らの批判を浴びていた人である。

私は何気なしに「建国記念日法案でも解決したらね」と揶揄して御開きになった。

ところが翌日確かめてみると、建国法案をめぐって妙な動きが始まっていた。議長室と副議長室の間に議長サロン(応接室)が有るが、田中副議長時代は書棚が置かれて開けられなかったサロンへの扉が開くように変わっている。

しかも議長室に入った社会党の石橋正嗣(いしばし まさし)国対委員長が副議長室から出てきたりするではないか。

これは何かある。ひょっとして建国法案をめぐる動きではないか。園田副議長に出入りするのは社会党だけ。山口議長の部屋には自民党だけ。

これは両党が秘密裏にサロンで建国法案について談合している。先日、菅原叙勲の話は瓢箪から駒だったのだ。

「あなたは菅原さんを使って建国法案を成立させるハラでしょう。日取りを決めずに法案を成立させ、日取りは菅原さんを会長とする諮問委員会に答申させて『2月11日』ずばりでしょう?」園田さんの顔色が変わった。

「そこまで読まれちゃ仕方が無い。事実をいうから合図をするまで書かないでくれ」となって問題は決着した。これをきっかけに代議士と記者の関係は友人関係になっていった。

説明によると建国記念「の」日とすることで社会党内は纏まる、つまり建国記念日法案ではなくなるからだ。自民党は「の」はたんこぶみたいで厭だが拘らない。

建国「記念日」ではなく「記念の日」なのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものである。これでは社会党も反対しにくいわけだ。

1966年6月3日、与野党は山口議長の調停という手続きにより「建国記念の日の日取りを決める審議会の設置で妥協。国民の祝日法改正案はこうして7日衆院通過、25日参院で成立。

7月8日、政府は建国記念の日審議会を設置、菅原通済森繁久弥ら10人を委嘱。審議会は12日8日『2月11日』を答申、翌9日直ちに公布。その1週間前に山口議長が経済事件に連座して辞任。後任は綾部健太郎氏を特種で抜いた。予めの挨拶に園田副議長が単独同行を許してくれたから分かっ

た。

園田副議長は衆院解散後も副議長に選出され、結局3代の議長を補佐し、1967年11月25日、厚生大臣として初入閣(佐藤内閣)した。遅すぎる入閣は当選9回、53歳だった。参照「ウィキペディア」 2007.02.02

追記:筆者にとっても佐藤首相にとっても忘れられない「の」であるが、

事の次第はNHKの特ダネに終始した。新聞は「抜かれ」続けたから扱いは

大きくしなかった。石澤さんはこのころNY勤務?でしたか。