田母神論文を読んで

正論。

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日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
福沢諭吉「脱亜論」(明治18年) より
原文 http://www.chukai.ne.jp/~masago/datuaron.html



一燈照隅 (http://blog.goo.ne.jp/misky730/) よりコピーペースト。
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「戦後思想」克服のために
(平成十一年四月、山口県宇部市松月院における講演より)

最近は連日のように、「学校崩壊」「学級崩壊」という言葉が、新聞の紙面に見られるようになりました。いつのころからか、中学校が荒れているということはよく耳にしておりましたが、最近では、小学校、それも低学年にまで、こういう驚くべき現象が見られるようになってきて、先生の話をまったく聞こうとしない子供たち、授業中に机の上を歩く子供さえいるという話も聞きます。

それをどう叱っていいかわからない先生方のご苦労もさぞかしと思いますが、問題は、それぞれの場面でどのように叱ったらいいのか、どう指導したらいいのかという、方法、工夫、そんなものをはるかに超えたところにあるのではないか。一人一人の善意をどんなに積み重ねても、どうにもならない濁流が、止めどもなく流れこんできている。問題をその源にまでさかのぼって、その根源を正すほかはない、今はそういう時だと思うのです。そんなことをいえば、いま目の前に火がついている、それを放置して、そんな回りくどいことを考えている暇はないと思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし私はやはりここで焦ってはいけないと思うのです。その根本をしっかり抑えないで、一つのクラス、一つの学校、そういう目先のことにとらわれた、いわば対症療法をどんなに施しても問題は一向に解決しないのではないか。ではその根源とは何か。それを端的にいえば「国が病んでいる」ということでしょう。日本という国が国としての機能を果たしていない。国として「体」をなしていない。それで国の教育を正しくしようとしてもできるはずはありません。そのことを放っておいて、教育にゆとりをもたせるのだとか、カリキュラムを学校の裁量に任せるのだとか、週五日制にするのだとか、文部行政は次々に手を替え品を替えて、対策に明け暮れているようですが、それではどうにもならない。日本の教育はそういうところにまで来ていると思うのです。

「国が病んでいる」。ではなぜそうなったのか。それを突きつめて考えていけば、やはり占領政策というところに行きつく。もっとも占領政策といっても、とりわけ今の若い方々にとっては遠い遠い昔の話、それを今さら取り上げても何の意味もあるまい、ましてどんなに占領政策に問題があったにせよ、それを今の時点であれこれ非難してみても結局は泣き言に終わるにちがいない、そう思われる方もいらっしゃるでしょう。たしかにここでそんな愚痴を並べても何の意味もない。

しかし思い違いしないでいただきたい。それは決して「遠い遠い昔の話」ではない。現に日本国憲法一つとってみても、あの当時引かれた路線は寸分たがわず今の時代に受け継がれているではないか。それはまさに「現在」の問題なのです。さらにここで是非ともお話し申し上げておきたいのは、占領政策が、決して一般に考えられているような、ひどいこともあっただろうが、いい面もあったというような、そんな生易しいものではなかった。それは日本の国のいのちそのものを断ち切るような、いかに峻烈、苛酷なものだったかということを直視していただきたいということです。そういう占領政策をそのまま実行に移して五十年、国が病にかからないはずはないのです。

もう一つは、だが、いかに苛酷だったとはいえ、それを撥ね返す力は一体、日本にはなかったのか、もしなかったとすれば、それはなぜか、ということを今の時点において徹底して反省しなければいけない。占領政策の直視と、それを撥ね返す「日本人自身が身につけていなければいけなかった」力の欠如への反省と、その両者をしっかりと見据え、戦後思想そのものを克服する道を見出さなければ、私たちは一歩も前に踏み出すことはできないところに来ていると思うのです。

「学校崩壊」「学級崩壊」という言葉を聞くと、私にはすぐ思い出す言葉があります。それは当時江戸にいた吉田松陰先生が、郷里の萩のお父さまにお出しになった手紙の中の一節です。

それは嘉永七年(一八五四)の一月、その前年の六月、ペリーが浦賀に来たその翌年でした。

ペリーは浦賀に来て幕府に国交を迫ったあと、いったん日本を離れ、その翌年の二月、再び日本に姿を現わします。その直前の一月二十七日に書かれたのがこの手紙なのですが、その中に次のような言葉があるのです。

「穏便々々の声天下に満ち、人心土崩瓦解皆々太平を楽しみ居る中にも、有志の輩は相対して悲泣するのみに御座候」

「穏便々々」とは、まあまあそう騒がないで、このところはうまく事を納めたほうがいいということでしょう。人々はすっかり浮足立ってまあまあというばかりで、「人心土崩瓦解」、人々の心はすっかりバラバラになってしまって、ただ目前の太平の中にひたっている。その中にあって、志ある私たち仲間は、お互い顔を合わせれば悲涙に暮れるばかりですと書いておられるのです。「学校崩壊」という言葉を聞くときにすぐ思い出すのは、この「人心土崩瓦解」という松陰先生の言葉です。すっかり目標を見失い、現実のどこに手をつけていいかまったくわからない。百五十年前のあの時代にも、日本はこのような危機にさらされていたのです。それに対して一体どうすればいいのか、それについては松陰先生はここでは特別ふれておられませんが、その日からちょうど二ヵ月、三月二十七日、先生は下田の港で米艦に乗りこもうとして失敗、自首して下田の平滑という番人の獄に入れられますが、そのときの状況を後に書きとめられた「回顧録」という文章の中に、この問題に対する先生なりの解答が用意されていると思うのです。

「是の夜、平滑と云ふ番人の獄に下す。獄只だ一畳敷、両人膝を交へて居る、頗る其の狭きに苦しむ」

両人というのは先生と、同行した金子重輔という門下生と二人なのですが、二人なのにわずかに畳一畳、「両人膝を交へて居る」とあるように本当に狭かったのでしょう。しかし先生はそれにもめげないで、番人から二、三冊の本を借りて読む。そして、そのあとがすごいのですが、その番人に、

「皇国の皇国たる所以、人倫の人倫たる所以、夷狭の悪むべき所以を日夜高声に称説す」

と書いておられるのです。このように狭い牢屋の中で先生は牢の番人に語りかけるのです。

この激動する時代の中で、われわれは一体何をなすべきなのか、どのような生き方を選ぶべきなのか、それを先生は夜も昼も高く声を励まして番人に説くのです。その生き方のポイントは三つある。その一つは「皇国の皇国たる所以」を知ること。天皇を中心に仰いで生きる日本の国柄をしっかりと自覚しなければいけないということ。次は「人倫の人倫たる所以」。人倫とは人間のこと。人間は動物、禽獣とはどこがちがうかということでしょう。先生は後に「士規七則」という文のはじめに、

「凡そ生まれて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし」

と書いておられますが、人間として生を受けたものの、当然に守るべき道を知れということです。そして三番目に「夷秋の悪むべき所以」。外国がどのような意図でこのように日本に開国を迫るのか、その魂胆をしっかり見極めなければならないということを説かれるのです。ところがこのようにして番人に心をこめて語りかけていると、番人は先生のはげしい思いに胸打たれて遂には涙を流して先生の言葉に耳を傾けるのです。

「獄奴蠢爾(ごくどしゅんじ)と雖も亦人心あるもの、涙を揮つて吾が輩の志を悲しまさるはなし」

私はこの言葉に接するたびに本当に胸の底から揺さぶられるような思いがいたします。「獄奴蠢爾と難も」の、蠢とは虫のうごめくこと。獄の番人は教養も学力もない身分の低い男なのだがやはり人間の心はもっていた。その証拠に自分の言葉に真剣に耳を傾け、涙を流してくれた。それに松陰先生は強く感動されるのです。

松陰先生の偉さ、それはあの松下村塾から次の明治を担う人材を数多く育てていかれた、その素晴らしさにあるといわれています。それはたしかにそうです。しかし、先生の本当の偉さは、むしろそんなところよりは、いま目の前にいる男、その人には次の時代を担う力があるかどうかわからない。しかしそんなことよりも、その一人の人間を、全力をこめて育ててゆく、人間として目覚めさせてゆく、そうしないではおられない、その迫力にあると思うのです。獄の番人、それはおよそ社会の底辺にいるような男です。しかしそんなことは先生には何の意味もなかった。先生はただその平凡な人間の中に、人問としての灯をともすことに全力を注がれた。そこに先生の真の教育者としての面目があると思うのです。

ともあれ、そこで先生は三つのことを説かれた。(一)天皇を中心に生きる国柄の素晴らしさ、その中に、日本人として生きる、あふれるようなよろこび、次に、(二)人間としての誇り、そして、(三)現実を、ムードに流されないで自分の目でしっかりと見つめる的確な目、その三つ、それがこのような乱世に生きる三つの柱であると説かれるのです。先にお話ししたように「人心土崩瓦解」、その崩れてしまった社会の中から人々が立ち直るためには、この三つの柱が要る、それを先生はここで明らかにされたのです。結局、それを学ぶ以外に瓦解した人心を立て直す道はない。そこに先生は一つの解答を示されたのですが、それは平成の御代に生きる私たちにとってもまったく同じことではないか。皇国の皇国たる所以、人倫の人倫たる所以、夷狭の悪むべき所以、日本を取り巻く数多くの国々が、どういう気持ちで日本と交渉をもっているか、その赤裸々な姿、その三つがはっきりとわかるときに、日本が蘇る日は来る。それは松陰先生のときも、「学校崩壊」に苦しむ現代の日本もまったく同じ。いずれもその三つが見えなくなっているのです。

例えば、その中の「夷狭の悪むべき所以」ということを考えてみましょう。今、私たちが大切なこととして教えられている日本国憲法、その前文には次のような言葉がある。

「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

そこに書かれていることは、われわれは自分たちを取り巻いている国々がすべて平和を愛し、公正と信義をもって行動することを信じて、われわれ日本の「安全と生存」を、すべてその国々の人にお任せすることとした、というのです。そこから、日本国憲法はスタートした。だから第九条では「戦争の放棄」、これからいっさい戦争はしないことを明記し、従って「軍備」も「交戦権」も認めないというのです。しかし誰が考えても、日本を取り巻く国々が、すべて平和を愛し、公正と信義に基づいて行動するなどという、そんな馬鹿なことがあるはずはない。

それなのに、それらの「諸国民」に日本の安全と生存を托するとは、とうてい常識では考えられないことでしょう。だがその内容がいかに現実離れしたものであろうと、もしそれを受け入れれば将来日本の国そのものの存続が危くなることがわかっていても、日本はそれを認めざるをえなかった。

しかも、その後の、後に申し上げるような巧妙な占領軍の心理的誘導の策にはまって、占領が終わるころには、これをそのまま肯定するという考えに変わってしまって、この憲法は制定当時のまま、五十数年を通して生きつづけているのです。最初に現在の日本は国としての「体」をなしていないと申し上げたのはそういうことなのです。こんな憲法をもった国民は世界広しといえども、歴史上かつてなかった。もちろんこのことを、このままにしておいていいのかという議論が最近特に大きく取り上げられてきてはいますが、それでも「憲法改正」ということに対してはいまだにごうごうたる非難があるのは皆さまご存知の通りです。

ではなぜアメリカは、そんなところまで日本を追いつめたのか。それを思うとき、いつも心に浮かぶ一つの情景があります。一九四五年、昭和二十年に日本は遂に敗戦の日を迎えたのですが、その半月あと、九月二日に東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリの艦上において降伏文書調印の儀式が行われました。それは日本にとって一番屈辱的な日でしたが、ここで私がすぐ思い出すというのはその調印式が行われた軍艦の甲板に枠に収めて置かれていたアメリカの国旗(星条旗) なのです。その星条旗とは何か。それは実は九十年前ペリーが日本に来たとき、その軍艦に掲げられていた星条旗だったのです。その国旗をなぜここにもってきたのか、それはペリーの願いが遂にここに実現した、その使命を達成しえた誇りとよろこびの表現だったのです。ではペリーの念願したものとは何か。それはアメリカという文明国が野蛮極まる日本という国に、鎖国の夢を破って新たな文明をもたらすことでした。常に自分を文明国として他を見下し、その野蛮な国々を啓蒙し、恩恵を施してやるというのがアメリカが建国以来いだきつづけてきた「正義」なのですが、自分たちは、その「正義」をこの日本において実現することができた。自分たちは遂に日本の迷蒙を打破して、文明を受け入れさせることができた。そのよろこびと、アメリカが果たしてきた役割を内外に誇示するために、九十年前のペリーの旗をここに掲げたのです。

もちろん日本がアメリカと仲良くすることは大切です。しかし自分が上に立って日本を導くのだという傲慢は許せません。その思い上がり、それを松陰先生は正確に見破ったのです。「夷秋の悪むべき所以」とはそういう意味でした。しかし今なお現代の人にはそれがまったくわかっていない。それどころかテレビなどでよく見られる光景ですが、浦賀あたりでは、ペリーの来航をお祝いして、あたかもペリーを日本開国の恩人のように褒めたたえている。実に情けないしぐさといわなければなりません。もちろん、アメリカにはアメリカなりの正義がある、それは当然だし、それはそれでいい。しかしそれとは別に、日本には日本の正義がある。しかし彼らにはそれがわからない。野蛮な日本を、アメリカが教え導いてやるのだ、そういう傲慢さは、ペリー以来一貫して彼らの意識の中に牢固として続いているのです。

昭和十二年(一九三七)七月、廬溝橋事件をきっかけにして支那事変(日中戦争)が起きたその年、十月にアメリカのシカゴで、大統領ルーズベルトが有名な「隔離演説」というのを行ったことはご存知でしょうか。そのころヨーロッパではドイツのナチスが台頭、イタリアと組んで、風雲急を告げる時代に突入していたのですが、その世界情勢を見ながら、ルーズベルトは次のように演説したのです。

「いま、世界的無法状態の伝染病が蔓延しつつあることは不幸にして真実であるように思われる。ひとたび身体の病気が蔓延すればその共同社会は、病毒の拡大から社会の健康を守るため、患者の隔離を承諾し、その隔離に参加しなければならない」

つまり、いま世界は、ヨーロッパではドイツ、すなわちナチスですね、このナチスと東洋の日本、この二つの国のまき散らす毒素によってめちゃめちゃにされようとしている。だからどこでも伝染病が発生したときは、患者を直ちに隔離病棟に入れるように、われわれはこの二つの国を世界の国々から隔離しなければいけない。それがアメリカの使命であるというのです。

日本とナチスという、本質的に異なった国を同列に扱うこともさることながら、こともあろうに日本を伝染病の患者のように扱う言い草は何と思い上がった考えなのでしょう。それは大東亜戦争が始まるわずか四年前のことですが、アメリカは日本をそのようにしか見ていなかった。

そのことは、今度の戦争を振り返るときには、是非とも肝に銘じていなければいけないことだと思うのです。実は大東亜戦争の直前、アメリカが最後通牒ともいうべき「ハル・ノート」を日本に突きつけた。それが事実上の宣戦布告にほかならなかったのはご存知だと思いますが、その中で日本のいっさいの陸海軍と警察力を支那(満州も含め)から撤退させよと迫ったことも、思えばそれは日本という国を、日本列島の中に封じこめようとした点で、四年前に宣言したルーズベルトの「隔離政策」の延長線上にあったというべきでしょう。人々は今度の戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって始まった、挑発したのは日本であると決めこんでいるようですが、とんでもない。その背景にはこのような「隔離演説」に露骨に示されたようなアメリカの日本への極端な蔑視があったことを知らなければなりません。

そういう背景で始められた戦争ですから、いよいよ戦争が始まって、日本やドイツの旗色が悪くなってきた昭和十八年の初め、ルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は、アフリカの北部、モロッコのカサブランカで会合、日、独、伊を絶対に容赦することなく、徹底的な「無条件降伏」に追いこむことを決議するのです。この戦争は中途半端なことで終わらせてはいけない。世界の平和を確保するためには彼らを二度と立てないようにしなければいけない。そのためには、彼らがよって立つ、哲学、思想そのものを破砕すること、それをこの戦争の最終目的とすべきであると決議したのです。日本やドイツの哲学、精神そのものを叩きつぶすこと、そしてそれらを完全に地上から抹殺すること、それを英米の首脳二人が完全に合意したのです。

そのことは、最初に述べました現在の日本の思想界、教育界のただならぬ混迷がどこから来ているかを考える際に決して忘れてはいけないことだと思うのです。

こうして昭和二十年、遂に日本は敗戦の日を迎えるのですが、そのとき連合軍から発せられた「ポツダム宣言」、それは当然のことながら、このカサブランカにおける決議の線に沿ったものでした。詳しいことは省きますが、簡単にいえば、これから始まる日本の占領は、日本がこれまで抱いてきたものの考え方をすべて放棄して、連合国が考えている思想信条に立脚した「新秩序」が建設され、日本が再び戦争を仕掛けるような能力が完全に破壊されたことを確認するまで続く。それが達成されるまで占領は終わらない。そこまではっきりと見届けることができたときはじめて占領を解くのだといっているのです。

戦争が終わったのは昭和二十年八月十五日、人々はその日を終戦の日と考えているようですが、決してそうではなかった。確かに八月十五日で戦闘そのものは終わった(もっとも終戦直前の八月九日に火事場泥棒のように戦争に参加、その勝利の分け前にあずかろうとしたソ連だけは、すでに降伏している日本に対して九月の初めまで戦闘を継続。目に余る残虐行為を繰り返したのはご存知の通りです)。しかし、その八月十五日を一区切りとして、連合軍は第二の戦争に突入したのです。それは日本人がこれまでかけがえのないものとして大切にしてきた日本の「哲学」、日本人の精神そのものを根こそぎに破壊してしまおうとする徹底した思想の戦いでした。だがそれに対して日本はどう対処したのか。誠に残念なことながら、一語にしていえば、まったくなすすべを知らなかったといっていいのです。もちろん占領初期においては、「なにくそ、今に見ておれ」、そういう気概は日本人の心の底に燃えたぎっていました。しかし、三年、四年と時がたつにつれて日本はまったく戦う意志を失ってしまった。占領軍は見事にその目的を達したのです。そして「ポツダム宣言」に書かれていた通り、戦争能力は完全に一掃され、彼らのいう「新秩序」が建設されたのを見届けて、昭和二十七年四月二十八日に彼らはやっと七年にわたる占領を解いたのです。すなわち本当の意味での戦争は、その日に終わったのです。

ではどうして日本人の精神はこんなにガタガタにされてしまったのか。その手口は実に巧妙で徹底的でした。世界の歴史の中で、戦争に破れて国が地上から姿を消した例は無数にあります。例えば大航海時代といわれた、ヨーロッパの壮大な世界征服の時代にスペインやポルトガルが、どんなに残虐な手段で次々に国を滅ぼし、民族を抹殺していったか。そういう例を挙げていけば枚挙にいとまはありません。しかしそういう歴史は誰の目にも、その非人道的な罪悪がはっきりわかるのですが、日本の場合はそうは見えなかった。

これほど巧妙に、陰惨に一国の精神がダメにさせられた例は、史上稀ではないでしょうか。

それはまさに世界の歴史始まって以来の大事件だった。そして誠に残念ながら占領軍はものの見事にその目的を果たして日本を去ったのです。だが今に至るまで日本人はそのことに本当に気づいてはいない。それはなぜか、原因はいろいろありましょうが、中でも近代の文明を駆使した、徹底的な言論の弾圧と情報の操作、いっさいの情報を検閲の枠の中に封じこめ、その空白に新たな情報を、全国津々浦々に張り巡らされた新聞、ラジオなどの報道機関、教育施設を通して、湯水のように流し続けたことによるものでした。先ほど申し上げましたように降伏文書に調印したのが二十年の九月二日、それから直ちに新聞社、出版社、放送局などの検閲が始まる。そして早くも九月十四日には同盟通信社、十八日には朝日新聞社が占領軍の方針を理解していないという理由で発行停止の処分を受けるのです。それに対して抗議をしてももちろん占領軍はいっさい受けつけない。占領軍はお前たちと交渉のテーブルにつくつもりはない、お前たちにはただ命令するだけだとはっきり言明して、言論の弾圧にかかったのです。

ところが、そのようなことは現在の学校の教育ではいっさい触れようとしない。しないどころか戦前の日本は軍部や憲兵隊などから徹底した言論弾圧を受けた、しかし戦後、占領軍のおかげですべて言論は自由、実に平和な、伸び伸びとした時代になった、そう教えられているのです。冗談ではない。例えば皆さんの中にもそういうご経験をおもちの方もいらっしゃるかもしれませんが、私は当時大学に通っていましたがプライベートな手紙が占領軍の手によって開封される、そのあとをセロテープで改めて封をして配達されることがよくありました。私たちはセロテープというのをはじめて見たこともあって、便利なものだと思いながらも腹立たしい思いでその手紙の封を切った記憶が鮮明です。戦時中、特に戦争が激化したころにはたしかに言論の統制はきびしかった。しかしそのときでも私信の検閲というのは軍隊の内部に限られていたことで、個人の手紙を郵便局で勝手に開封するといった人格を完全に無視したような検閲は絶対になかった。それを占領軍はやったのです。

こうして十月になるといっさいの言論の自由の撤廃が指令されて、すべての出版物が占領軍の監視下におかれ、さらに十二月八日、四年前のこの日が大東亜戦争開戦の日なのですが、この日を期してすべての新聞に、占領軍の手によってつくられた「太平洋戦争史」の連載が始まるのです。次いで、翌九日からは「真相はかうだ」というラジオ番組が放送されて、日本がいかに無謀な戦争を仕掛け、いかに残虐な行為を続けたかという徹底したキャンペーンを張ったのです。さらに十二月十五日の神道指令では「大東亜戦争」という言葉の使用を禁止して「太平洋戦争」と呼ぶように指令(それがマスコミや教育界で現在でも守られているのはご存知の通りです)、十二月三十一日には修身、日本史、地理の授業を停止して、それらの教科書をすべて廃止してしまった。これらを総括して彼らは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(日本人に戦争犯罪の意識を植えつける洗脳計画)」と呼ぶのですが、その洗脳の嵐が日本国中を吹き荒れたのです。

だが先ほど申し上げたように、今日の日本では、特に教育界ではまったくこのことを取り上げようとはしない。それは一つには占領軍のやり方が実に巧妙だったということがある。すなわち、そのような検閲が行われたことは、一般にはいっさいわからないように、例えば新聞の紙面では、削除された個所が空白のままにしてあると、検閲が行われたと察知されるので、検閲の痕跡はすべてなくしてしまうように指示したのです。こうして占領軍は実に巧みに日本人の意識を変えていった。特に問題なのは、このようにして言論界を思う通りに操作したあと、二、三年たったころでしたか、占領軍は検閲を事前から事後に切り替えた。すなわち発行以前にお伺いを立てる必要はなく、発行後に提出すればいいように改めたのです。ということは一見自由になったようですが、そうではない。事前検閲だと、もしひっかかれば、その場で訂正すればよかった。しかし事後検閲は、もしも占領軍からクレームがつけば、すでに印刷した新聞も雑誌も全部反故にしなければならないことになる。そんなことになれば新聞社も出版社も死活問題になってしまう。そのために、それにたずさわる人々は必要以上に自己検閲をすることになる。つまり常に占領軍の顔色を伺いながら文章を書くという習性が身についてしまったのです。自分でものを見ることができない、「占領軍の目」でものを見るようになってしまった。
このことを、文芸評論家の江藤淳氏は実に綿密な調査をして、日本人は自分の生きた目をえぐりとられて「占領軍の目」という義眼をはめこまれた、とおっしゃっています(『閉された言語空間』)。まさにそのとおりで、日本の新聞社も出版社も、そういうことにたずさわった文化人はすべて義眼でしかものが見えないようになった。実はその「義眼」が現在まで、日本のほとんどすべてのジャーナリズム、言論界を動かし、国民すべてがその影響のもとに生きているのです。南京で三十万人を虐殺したといわれれば、それに抗議することをあたかも罪悪のようにためらい、日本人の残虐行為が報道されれば、鬼の首でも取ったようによろこぶ風潮、すべてそれはこの「義眼」のなせるわざなのです。もっともこの場合は「占領軍の目」というより、「アジアの近隣の目」といったほうがいいかもしれない。いずれにせよ、日本人は「自分の目」で自分を見ることができないようになったのです。自分を見るときは常に他人の目で見るように習慣づけられてしまったのです。

皆さまは「蚤の曲芸」という話をご存知でしょうか。これは尾崎一雄という小説家の『虫のいろいろ』という作品の中に出てくるものです。蚤は実に小さな虫ですが、自分の背丈とは桁外れに長い距離を跳ぶことができる。だからこの蚤に曲芸を仕込むのは容易なわざではない。そのため一番最初には、この蚤を小さな丸いガラスの玉の中に入れるのです。当然、蚤は得意の脚で跳ね回るのですが、周囲は硬いガラスの壁なのですぐ落ちてしまう。そうしているうちに蚤は跳ねることに絶望し、あげくの果てはそのガラスの玉の中だけが自分の世界だと思ってしまう。そうして跳ぶのをやめる。そうなってしまえばガラスの玉から取り出してももう蚤は跳ぼうとはしないのだそうです。曲芸師たちはそこまで仕込んだあとで、蚤に芸を教えて舞台に立たせるのだそうです。私はこの戦後の無惨な日本の状況を思うと、いつもそのことが頭に浮かぶのです。尾崎一雄さんもこの話を聞いたときは実に「無惨な話」だと思ったと書いておられる。「持って生まれたものを、手軽に変えてしまう。……これほど無惨な理不尽さは少ないだろう」。本当にその通りで、まさに戦後の日本人は、すでに占領というガラスの玉から抜け出したはずなのですが、そのガラスの玉の中に生きていたときの習性が身についてしまって、もう自分は跳ぶことはできない、それが自分の生まれつきの能力なのだと思いこんでしまって、目に見えない占領軍の目を意識して文章を書くようになったのです。戦後思想、戦後教育の問題はすべてこのおびえのような意識から生まれて、現在まで続いているのです。そして占領軍も、ちょうど蚤の曲芸師のように、もう跳ぼうとはしないことを見届け、わが事成れりと考えて占領を解いたのです。

だが、日本人すべてがこの錯覚の中に陥っていたその中に、ただ一人、錯覚から免れた方、ガラスの玉の外に身を置かれた方がおられた。それが実は昭和天皇だったのです。天皇は占領が終わったとき、「これでいよいよ占領は終わった。あとは日本人が思いっきり自分たちの手で自分たちの力で日本を再建していける。そういうときが来た」とおよろこびになったのです。
そのときお詠みになった御歌、

風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり

あの冷たい風が吹いていた冬は終わって、待ちに待った八重桜が咲く春となった。平和条約発効の日は、昭和二十七年四月二十八日、天皇誕生日の前日、ちょうど八重桜が咲く季節です。この燗漫と八重桜が咲きほこる時を迎えた。そういうあふれるようなよろこびの御歌ですね。さらにもう一首、

国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに

いよいよ春が来たのだ、霜の凍りつくような寒い冬の中で耐えに耐えてきた国民の力によって。国民は本当によく耐えてくれた、我慢してくれた、そのお前たちの力によって今日を迎えることができたとおっしゃったのです。「占領が終わったからよかった」というのではない、皆がよくぞ我慢してくれたからこそ今日の日を迎えることができた、それがうれしいとおっしゃったのです。この御歌をお詠みになったとき、天皇の御心の中には、おそらく終戦の翌年の春、歌会始の折にお詠みになった次の一首が浮かんでおられたにちがいない。それは「松上の雪」と題する一首でした。

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

これからはいよいよ占領下という想像を絶する苦しみの中に、日本再建の営みが始まる。お前たちはさぞかしつらいだろうが、「ふりつもる雪」の中でも、美しい色を変えない松、あの松のように節操を守って、日本人の心をしっかり守り抜いて、この難局に耐えてほしい、「松ぞををしき人もかくあれ」、あの松のような雄々しい日本人であってくれよと、思いをこめてこの一首をお詠みになったのです。占領が解けた今、この六年前の御歌を御心に浮かべながら、あのとき自分が詠んだように、お前たちはじっと耐えて、松の緑をしっかり守ってくれたにちがいない。だからこそ今こうして占領が終わったのだとおっしゃったのでしょう。しかし本当に申し訳ないことに、国民はこの昭和天皇の深いご信頼を完全に裏切ったのです。あれほど熱い思いで天皇は今日の日をお迎えになったのに、国民は、ポツダム宣言で約束させられた、その言葉通りに、彼らの「新秩序」の中に見事に組みこまれてしまっていたのです。そしてその日から五十年、いまだに日本人はこのガラスの玉の中から出ることができないでいる。それどころか、昭和天皇が御崩御になったあとは、政治家の世代が戦後教育の中で育った人々に入れ替わってきたこともあって、状況はさらに深刻になってきている。そして占領軍が考えていたよりさらに先回りして、日本の心を踏みにじろうとする人々が時代を動かそうとしているのです。

ではなぜこのようなことになったのか、ガラスの玉の存在に気づかないのか、問題はそこにあるのです。私は最初に申し上げたように、ここで、占領軍のやり方があまりにひどかった、だからこんなことになったのだ、というような愚痴をいおうとしているのではありません。もちろんこれまで述べてきたように、占領軍のやり方は実に過酷でした。史上稀に見るひどいものでした。しかしだからといって、このガラスの玉から抜け出ることができないでいる現実を、すべて占領軍のせいにしようとは思いませんし、またそうすべきではないと思うのです。現に昭和天皇はそのガラスの玉の外に身を置かれていたではないか。ということは、やはり日本の側にも大きな問題があった。いかにきびしい占領政策であったとはいえ、それを撥ね返す力がなかった。それはなぜか。そのことをお話ししていけば、あまりに多岐にわたりますので、ここでは戦後の日本人が陥っている一つの思考法についてふれておきましょう。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、埼玉大学に長谷川三千子という教授がいらっしゃいます。この方は戦後生まれのまだ若い方なのですが、この先生が自分の経験を次のように書いておられます。
曰く、
自分は戦後の生まれで、当然、戦後の教育を受けて育ってきたので、ご多分にもれず、戦前という時代は、理性を失った暗黒時代だったと信じてきた。だが、その後どういうきっかけだったか、戦時中の記録を読みあさりはじめたことがあって、数カ月過ごしているうちに、はっと一つのことに気づいた。そして自分はこれまで「戦争」ということについて何一つ理解していなかったことを知ったといわれるのです。その「一つのこと」とは何か。それは自分はこれまで「敵」というものの存在に気づいていなかった、ということでした。学生時代にはまったく教わらなかった戦記ものの世界、その中にひたっているうちに、あっ、そうなんだ、自分は今まで「敵」の存在を抜きにして、歴史を読んでいたのだと気づかれたのです。たとえば「戦争が始まった」というでしょう。「原爆が落ちた」というでしょう。すべては自然現象のような言葉づかいでしょう。しかし「戦争が始まった」といっても、当然そこには敵があり、味方がある。アメリカがあり、日本がある。その相互の国家意志がさまざまな形でぶつかりあいながら、遂に戦争に突入していくわけでしょう。ところがこれまで読んだ歴史ではそれを一人芝居のように日本の航空艦隊が真珠湾に襲いかかった、何とひどいことをするのだろう、ということですべては片づけられてしまっていた。そこには「敵」の存在はまったく無視されている。「原爆が落ちた」というのも、考えてみれば実に奇妙な表現で、いうまでもなく、アメリカの飛行機が、原爆を「落とした」のでしょう。だがその場合にも「敵」の存在を見ようとしない。そして原爆という恐ろしい兵器ができたためにこういうことになったのだ、日本が無謀な戦争を始めたからこういうひどい目にあったのだ、というように、すべてを、いわば「時の流れ」のように見るのです。「これが運命だから」というように諦めてしまうのです。そして原爆投下のボタンを押した「敵」の存在、敵の意志を無視するのです。しかもただ無視するだけではない、それをすべて自分のせいにするのです。

私は福岡に住んでおりますが、昭和二十年の六月、福岡もB29の大空襲を受けました。そのとき福岡の町は壊滅的な打撃を受けたのですが、数年前、それをテーマにして「平和教育」を訴えようとするアニメの映画ができました。その題がまた『火の雨が降る』なのです。火の雨は天から「降った」りしやしない。マリアナの基地から飛び立った二百数十機のB29が大編隊を組んで「火の雨」を降らしたのです。猛烈な絨緞爆撃を繰り返して、何の罪もない一般の民衆を無数に殺害したのです。もっともこの映画は非常によくできていて、かわいい男の子と女の子が手をとりあいながら猛火の中を逃げまどう姿は本当にいじらしかった。かわいそうでした。だがそれを見る人は、空襲を続けるアメリカ兵のことを憎いとは思わない。なんてかわいそうなんだろう、日本は何とひどい戦争を始めて、こんなかわいい子供を苦しめたのだろう。絶対戦争をしてはいけない、戦争を始めた日本の軍部が憎いということになるのです。考えてみれば何と倒錯した心理でしょう。広島の「原爆慰霊碑」の前に「ふたたび誤ちはくりかえしません」と書いて世界の人々を唖然とさせる心理状況もまったく同じところから生まれたものなのです。

長谷川三千子先生は「敵」の不在について次のように書いておられます。
「戦争から『敵』という事実を完全に無視して、片側の行為だけを描写すれば、これはただ気違ひの行為としか見えない。あるいはただ残虐の一語に尽きる。そして戦時中の日本人の行為を、まさにさういふものであつたとわれわれは教はつたのである」(『からごころ』)こうした「敵」が見えない異様な歴史認識を、占領下の日本に重ね合わせてみれば、日本人が最初のころはまだしも、占領の日数が重なっていくにつれて、すっかり警戒心を捨ててしまって、占領軍を平和の使者のように考えはじめた心理、占領軍の言いなりに身を委せた心理もよくわかるのです。そして占領下という異常な状況のもとで施行された憲法を、後生大事に抱えこんで、先に申し上げたように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」軍備を放棄し、「われらの安全と生存」をすべて他国に委ねて悟として恥じないという、驚くべき心理がどこから生まれてきているか、実に手に取るようにわかるのです。その恐るべき心理の泥沼から抜け出さない限り、日本に未来は絶対にないのです。

この「戦争がはじまった」「原爆が落ちた」という「敵」の主体を抜きにした発想は、戦後のすべてに共通するものですが、特に顕著なのが、「戦後は、戦前の『天皇主権』の時代から、『国民主権』の時代になった」というものの言い方、考え方です。それは最近特に問題になっている国歌「君が代」について、戦後の国民主権の時代に、天皇讃美の歌はそぐわないと反論する人が常に口にすることですが、一体それは本当なのか。たしかに憲法の前文に「主権が国民に存することを宣言し」という言葉はあります。しかしそれは占領下という異常な状況の中で、占領軍の手によって「入れさせられた」のであって、日本人が好んで、自らの意志で入れたのではない。そもそも主権が天皇にあるか国民にあるかという議論そのものが、日本の本来の国柄にはそぐわないのです。だから戦前にも「天皇主権」という言葉はなかった。君民一体の政治理想を受け継いできた日本に、「主権」という概念をもちこみ、君民のa間を切り裂いて、天皇から国民へという図式をもちこんだのはほかならぬ占領軍だった。その現実を見ようとはしないで、戦後「天皇主権の世の中から、国民主権の時代になった」というのは、「原爆が落ちた」とまったく同じ発想といわなければなりません。
そんなことよりも、占領軍があれほど、日本人の思想を、哲学を破壊しようとしながらも、天皇を処刑せよ、天皇制を廃止せよというソ連をはじめ多くの国々の意見を抑えて、憲法第一条に、天皇を国民統合の象徴として位置づけたことが、どんなに重要なことだったのか、そのことにこそ注目しなければいけません。それは単に時の流れで「そうなった」のではなかった。日本の必死の思いが「そうさせた」のです。もしここで天皇の存在を抜きにした憲法を押しつけるようなことをすれば、日本人は再び蹶起するにちがいない。そうすればアメリカはさらに百万の軍隊を動員しなければならなくなる。そういう日本国民の気迫が占領軍をして、天皇の地位を認める憲法を制定させたのです。

日本人は占領下、すべては彼らのぺースに巻きこまれたと申しましたが、ただ、こと天皇の問題になったときには、そうではなかった。さすがに、日本の国柄の中核に手をふれようとする占領軍の動きには、当時の日本人は敏感に反応したのです。そういう意味で、この憲法第一条こそは松陰先生のいう「皇国の皇国たる所以」を天下に明らかにしたもの、長い歴史の中に培われてきた日本の精神、伝統の最後の砦、命綱だといってもいい。この「憲法第一条」がある限り天皇という国民統合の象徴として仰ぐ方の万歳を唱え、「君が代は千代に八千代に」と天皇の御代が永久に続くことを祈ることはあまりにも当然のことといわなければなりません。
近頃は、天皇を軽んじる風潮に媚びて、「君が代」の「君」は「あなた」の意昧で「天皇」を指すのではないなどという人がいますが、とんでもない。日本最古の勅撰集(天皇の御命令で撰ばれた歌集)『古今和歌集』の「賀歌」の最初に掲げられた「君が代」、もっともここでは初句は「わがきみは」になっていますが、その「きみ」が天皇であることは当然のことでした。天皇の聖寿の永遠を願うことは、日本人としてあまりにも当然の国民感情でした。そこに「皇国の皇国たる所以」があったのです。日本人にとって天皇と国民は決して別々のものではなかった。それはまったく同一のもの、それこそ、遠い古から、天皇は国民統合の象徴だった。それをあの戦後のただならぬ時代に守り抜いて、憲法の第一条をこのような形で残しえたことに感謝することを忘れて、天皇主権の時代から国民主権の時代になったという言い方がいかに愚かな、ためにするものか、多言を要しないと思います。この場合は単に「敵」の存在を無視しているだけではない、終戦後のあの苦しい時代に処して、日本の国柄を守り抜いた先輩の血のにじむような努力をも無視した、許しがたい所業といわなければなりません。


私は最初に「日本の国は病んでいる」と申しました。そしてその「病」が治らない限り学校崩壊も学級崩壊も止めることはできない、と申しました。さらには、最近いよいよ顕著になってきた「家庭崩壊」も、同様でしょう。そのような現象の根源は「国が病んでいる」ことにあります。ガラスの玉の中から抜け出せない、すべてを「時の流れに身を任せて」自らの意志を失った状況をいうのです。それは普通考えられているように、単に考え方がおかしい、間違っているということともちがうように思われます。それは例えば繰り返して申し上げたように、自分の国の安全を外国の手に委ねる、などという発想に現われているように、思想以前の、「精神の虚脱状態」というべきではないでしょうか。天皇の問題についても同じです。もしもこの国に天皇の存在がなくなったと仮定したら、日本は一体どのように生きていくのか。ただでさえ現在、外国から軽侮の目で見られている日本が、天皇という核を失い誇りを失ったら、日本には何一つ世界に向かって自らの存在を主張する自信もなくなり、単に物欲に長けた民族、自分のことしか考えない醜悪なエゴイストとして軽蔑され、獲物を襲う禿鷹のような他国の餌食にされるのは誰の目にも明らかでしょう。世界の人はすべてそういう目で日本を見ている。そのことにまったく気づこうともせず、国旗、国歌を悪しざまに罵る人々の目には一体、何が映っているのか。それはもはや思想の正邪の問題ではない。思想以前の、精神の荒廃そのものとしかいいようがない。私にはそのように思われてなりません。

皆さんは、竹山道雄という方が書かれた『ビルマの竪琴』という小説はご存知でしょう。何度も映画化されていますが、今度の戦争を扱った小説として、非常に優れた作品です。実はこの小説を書かれた竹山道雄先生は一高、東大のドイツ文学の先生で、もともと小説家ではないのですが、この先生にはもう一つ『白磁の杯』という小説があるのです。この小説は、小説というより小説の形をとった文明批評とでもいうべきものです。舞台は支那、十二世紀の初め、日本でいえば平安時代の末期のころになります。北支にあった鉅鹿(きょろく)という町を舞台にしたフィクションです。その町は遠い昔に大洪水のため水底に沈んでしまった。ところが最近になってその町が発掘されたところ、不思議なことに、その町の中の多くの人骨はほとんどが寝たままの姿で発見されたというのです。いかに急な洪水とはいえ、どうしてこのような形で人々は死んでいったのだろう、ということからこの小説は始まるのです。
その鉅鹿という町に当時一人の幻術を使う道士が現われて、町全体を一つの幻想の世界に引きずりこむのです。町の人々は、その術に操られて陶然とした世界に引きこまれ、その道士の思うままになってしまう。ところが、その町のそばに大きな河が流れていて、河の岸には堤防が築かれていたのですが、その堤防が少しずつ崩れはじめている。そして町の中の井戸も濁って、町全体に泥の臭気が漂いはじめる。しかし誰もそれに気づかない。あるいは気づいているかもしれないが、何とも考えない。何もいわない。
ところが、そこにある青年が登場するのです。その若者はそういう道士の世界とはちがって現実的な儒教の教えを学んでいる誠実な青年なのですが、この青年の目にはそれが見えるのです。そして大変な危機感をもつ。これは危ない!と思って町の人に口を極めて説くのですが、誰も相手にしてくれない。いいじゃないか、もし大変なことが起きて死ぬようなことがあっても、それで自分たちは幸せなのだといって、何の不安も抱いていないのです。
青年は遂にたまりかねて都に馬を走らせるのですが、その都の皇帝も同じ幻想の世界に酔っている。ただ政府の高官にはその青年の心が通じて、急遽現地の視察に赴くのですが、時すでに遅く、堤防は崩れて、あっというまに町は水の底に沈んでいく。その青年も今さらどうにもならないというあきらめの中に、恋人と一緒にむしろ夢を楽しむようにして死んでいく。この町の人々の人骨がすべて寝たきりの姿で発見されたのは、そういういわれがあったからなのです。
以上がこの小説のあらすじですが、ここまでいえば、竹山先生がどんな意図でこういうフィクションを書かれたのか、もう皆さまにはよくおわかりでしょう。この小説が書かれたのは昭和二十九年、占領が解けた二年後ですが、そのころの日本は先にも申し上げましたように、戦後の「平和と民主主義の世界」という、占領軍によってつくりあげられた「新秩序」の中にひたりきって、人々はそれに何の疑いをもつことなく、むしろ日本は負けてよかった、新しい民主主義の世界が来たと、戦後を謳歌する風潮が、特に教育界、思想界を風靡していました。
人々は現実を見ようとはせず、「新秩序」の幻想に酔っていました。「人間は世界を幻のように見る」というのは、その小説の中に出てくる竹山先生の言葉ですが、人間にとって現実を現実として見るのがどんなにむずかしいか、この『白磁の杯』という小説は、このような人間のもつ根源的な愚かさ、悲惨さ、それを徹底して見つめた小説です。
しかし、そのときから五十年、今、その悲惨さは改められるどころか、さらにひどい症状を呈してきている。その意味ではこの小説は恐ろしい予言の書といってもいいのです。今の「学校崩壊」も、「家庭崩壊」も、思えばその堤防が崩れはじめたときの鉅鹿の町に立ちこめた泥の臭い、大洪水の予告ではないか。もうこうなれば教育界の崩れを小手先で修復しようとしてもどうにもなるものではない。今の時点でこの小説を改めて読んでみると、それが書かれた時代より、さらに真に迫って感じられるのです。竹山先生の予感は見事に当たったといわなければなりません。私たちは今そういう時代を迎えているのです。

しかしよくよく考えてみれば、これが占領軍という幻術師が仕組んだガラス玉のなせるわざだということがわかりさえすれば、問題は一気に解決するのではないか。一見手のつけられない現象のように見えるけれども、ガラス玉の外に身を置きさえすれば、すべての真実がたちまちに蘇ってくる。そうはいえないでしょうか。
例えば先に申し上げた、憲法の前文や第九条が改められたり、第一条に示された日本の国柄について、政府の中枢にいる人が堂々と国民の前に所信を披歴するようなことがあれば、その「幻想」は一挙にして溶けはじめるのではあるまいか。私たちに求められているのは、実はそんなにむずかしいことではない。あの鉅鹿の町の青年の目をもちさえすればいいのです。一つの結び目をほどきさえすればいいのです。決して悲観してはいけない。一旦閉じた目を開きさえすれば、坦々とした大きな道が見えてくるはずです。私たちはそれを信じなければいけない。
ただそうはいっても、その一線を踏み越えるためには、やはりただならぬ覚悟が必要でしょう。しかし最後には必ず勝つ、必ず道は開ける。そのことを孟子は次のようにいっています。
「仁の不仁に勝つは猶ほ水の火に勝つがごとし」

「仁」は水、「不仁」は火。火に水をかければ必ず火は消える。ただし、車いっぱいに積んだ薪が燃え盛っているときに、コップ一杯の水をかけても、それは消えない。そんなときに「水をかけても火は消えないではないか、火は水よりも強い」というなら、それは「不仁に典する」もの、悪に味方するものだと、孟子はいうのです。「仁は不仁に勝つ」、それを信じないで一体何を信じたらいいのか。
吉田松陰先生は、獄中における「孟子」の講義録『講孟餘話』の中で、この孟子の言葉を引いて、さらに「若し勝たざれば仁にあらず」といわれました。勝たなければ、それは元来「仁」ではなかったのだ。だから勝たなければ、その勝たなかった理由は自分に求めなければいけない。自分のどこかにまだ至らないところがあったために、「不仁」という火を消すことができなかったのだと、自らを省み自らを励まさなければならないといわれるのです。だから本当に「仁」でさえあれば、それは必ず「不仁」に勝つのだ。
この一節は「大志ある者、日夜朝暮に暗誦して志を励ますべし」と先生は強い確信をもって語りかけておられるのです。ただし勝つとはいっても、今日、目の前で勝つかどうかはわからない。あるいは自分が生きている間には勝つことができないかもしれない。しかしそれは決して本質的なことではない。生きている間には勝利を手にすることができないかもしれない。しかしそのときは自らの志を「一身より子々孫々に」伝える決心で臨むならば、必ずその志を遂げることができるはずだ。松陰先生はそのことを信じ、その「信」に生涯をかけられたのです。
現に松陰先生はそのときから五年を経ずして、その短い生涯を閉じられましたが、その念願はそれから十年ほどの月日で、「王政復古」という形で成就されたのです。
「仁は不仁に勝つ」、その信に立てば、道は必ず開けてくる。私たちはこれからどんなことがあろうともそれを信じて、くじけそうになったときはお互いに励ましあって、その道を歩んでいく以外にないと思います。
私がかねてから強く心を惹かれ、お慕いしている歌人に川出麻須美という方がおられましたが、その川出先生がお亡くなりになるとき、次の一首を「墓碑銘の歌」として残されました。

極まればまた蘇る道ありて生命果てなし何かなげかむ

この世ではどうにもならなくなったときには、不思議なことに必ずいのちが蘇ってくる。むしろ、一歩も進めなくなったときこそ、新たないのちが新しく芽吹いてくるときなのだ。「生命果てなし何かなげかむ」。生命は永久に受け継がれていくのだ、どうしてなげくことがあろうか。私たちはいま本当に苦しい時代のただ中におりますが、この苦しいときこそ、新たないのちの蘇りを信じて生きていくべきでしょう。最後にこの一首を皆さまとともに心の底に刻んで、お話を終わらせていただきます。


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